ニューヨークで活躍する日本人ジャズギタリストのスゴい人!

14歳、ギターを始めて3か月でプロバンドに加入

うぬぼれていたのに目が覚めた

旅行先でのラッシード・アリとの運命の出会い

本日登場するスゴい人は、ジャズ界のメジャーリーグとも称されるニューヨークで活躍する世界的ギタリスト。
彼は14歳から独学でギターを始め、17歳で単身渡米し、ヴァージニア大学を経て、奨学金でバークリー音楽院に進学。
もっとも敬愛するジョン・コルトレーンのドラマーであったラッシード・アリとのワールドツアーをはじめ、ロックスターのカルロス・サンタナなどとの共演を果たし、現在はニューヨークのトップアーティストとして知られる。
彼はどのようにして活躍の場をつかんできたのだろうか。

さあ…
ギタリスト
Gene Ess Shimosato様の登場です!

ピアノで遊ぶのが好きだった幼少期

2歳くらいの時、家にピアノがあって、それをがむしゃらに叩いていた記憶があります。
言葉もそんなに話せなかった頃だけれど、楽しくて一日中叩いていました。
母がクラシックピアノの先生で、僕もそれからずっとピアノを弾いていたのですが、12歳で反抗期に入ったのを機に辞めてしまいました。

14歳、ギターを始めて3か月でプロバンドに加入

14歳の頃にギターを手に取り、独学で好きな音楽を耳で聞き取って弾いて、楽しんでいました。
ギターを買って3、4か月後にプロバンドのオーディションがあって、友達と一緒に受けてみたら「じゃあ、明日からよろしく」と言われて。
それから毎日のようにライブをやっていました。
今から考えると良い演奏ではなかったと思うけれど、ちやほやされて、沖縄で名前が出るようになりました。
学校でも人気者になって、ギターをやればこうなるんだという簡単な発想で、ギターで生きていくことを考えていました。

音楽こそ、僕が生まれてきた理由

高校卒業後、アメリカの大学に進学しました。
ピアニストだった母から、「音楽はきついから大学では違うことをやった方が良い」と言われ、大学ではコンピュータエンジニアリングとクラシック音楽の2つを専攻しました。
でも大学で音楽を認められて、「もう音楽しかない、これが僕の地球に生まれてきた理由だ」と思い、音楽に打ち込みました。
ちょうどその頃初めてJAZZに触れて、同時期に当時のガールフレンドのお父さんから偶然、ジョン・コルトレーンの「サンシップ」というアルバムのレコードをもらって聞いて、人生が変わりました。
JAZZにのめりこみ、それしか見えなくなってしまったんです。
翌日には図書館でコルトレーンのレコードや本を借りて、コルトレーンのことを勉強しました。
ある時、大学の先生が「ボストンにバークリー大学というJAZZの有名な学校があるよ」と教えてくれました。
お金もないし彼女にも振られてしまって、日本に帰ろうかと思っていたのですが、資料を取り寄せると奨学金の締め切り直前で、挑戦することにしました。
最後の200ドルを銀行から引き出し、レコーディングスタジオを借りて、クラシックギターの演奏を録音したテープを大学に送ると、数か月後、大学から手紙が届きました。
「きみの演奏は素晴らしい。フルスカラシップで来なさい」と。

うぬぼれていたのに目が覚めた

バークリーにはすごい人ばかりが集まっていて、沖縄やヴァージニアで上手いと言われてうぬぼれていたのに、目が覚めました。
最初のオリエンテーションで、「君たちの0.5%が将来プロになれる。もしそれが怖かったら、今すぐほかの道を進みなさい」と言われ、現実を見せてくれたことにすごく感謝しています。
すごくきつかったけれど、大きな影響を受けた時期でしたね。
意地で毎日誰よりも遅くまで練習していました。
最初は毎日のようにくじけそうになっていました。
でも諦め方がわからず、良いのか悪いのかわからないけれど、自分がやろうと思ったら最後までやるタイプなので、最後まで残っていました。
子どもの頃、僕の両親は仲が悪く、離婚をしたり、大変な思いをしたので、音楽はきついこともたくさんあるけれど、子どもの頃と比べたらどんなことも楽勝だと思えました。
音楽は好きなことだから、苦労とは言えません。
僕にとっては、音楽だけで食べていくことがゴールではありませんでした。
ギターでコルトレーンのようなミュージシャンと一緒にプレーして、そのレベルの音楽を作りたいというのが、子どもの頃から今も変わらない目標です。
頑張っているうちに、やればできるんだと思えるような出来事が続いて、今があります。
バークリーに一緒に入学した2000人のうち、最後まで残った7人の仲間は戦友のようで、会うと励まされます。

旅行先でのラッシード・アリとの運命の出会い

僕は運が良いのかもしれません。
大学3年の時に、友人でジミー・ギャリソンという有名なベーシストの息子のマットとニューヨークに遊びに行って、ソーホーを歩いていました。
道端で中古レコードを売っているのを見ながら、「お前の父さんがのっているぞ」と話していたら、レコードを売っていた人が「きみ、ジミー・ギャリソンの息子なの?すぐそこにラッシード・アリの家があるから訪ねてみると良いよ」と教えてくれたんです。
ラッシード・アリは、憧れのジョン・コルトレーンのバンドのドラマーで、レジェンドのような人です。
僕たちは驚きつつも、勇気をもって家を訪ねました。
運よく本人が家にいて、僕たちもバンドをやっていると話すと「帰ったらデモテープ送ってくれよ」と言われました。
何もないだろうと思いながらも送ると、半年後にラッシード・アリから僕に電話がきたのです。
「君はボストンにいる必要はない。ニューヨークへ来い。俺のバンドに入れ」と言われ、卒業後、ニューヨークに移りました。
最初の共演の時には「LIVEを聞いて曲を覚えろ」と言われて、ウォークマンを持って行って録音し、夜通し何十回も聞いて覚え、翌日のLIVEに出ました。
無名だったのに、レコードに出ているような人たちと共演して、すごく緊張したのを覚えています。
いくら練習しても日によって調子の良し悪しはあるのに、その日はすごく良くプレーできたんです。
神様が味方してくれて、ラッシード・アリにも褒められて、それから13年くらい一緒にバンド活動をしました。

生まれ育った日本での新たな目標

自分で作った音楽で、自分が一番信用できるバンドの中でパフォーマンスをできること。
そのパフォーマンスが普段のレベルを超す、スポーツで言うゾーンに入るような感覚が時々あって、それが一番幸せです。
そういうコンサートをできたら、苦労が報われます。
プロになると、売るために政治やビジネスなど音楽と関係ないことも入ってきて、純粋に音楽だけをできなくなります。
だから、なぜ自分が音楽をやっているのかを忘れないように、毎日自分に言い聞かせています。
音楽が好きだからプロになりたという人は、音楽は趣味として、違う道に進んだ方がいい。
音楽しかやれない、そこまでの覚悟がある人こそ、その道を進むべきだと思います。
僕が知っているNYで活躍している人たちは、みんな24時間音楽のことを考えていて、憑りつかれたように音楽をやっています。
そうでないと、プロにはなれないのだと思います。
現在日本でツアーをしていますが、いつかNYの自分のバンドを連れてきてツアーをしたいです。
また、日本にいる数々の素晴らしいミュージシャンや、日本の音楽とコラボレーションしたり、日本でやりたいことがたくさんあります。楽しみにしていてください。

取材を終えて・・・

優しい笑顔が印象的なジーンさん。
世界最高峰のバークリーの学生でさえ、プロとして活躍できるのは1%にも満たないということ、1年で音楽の厳しさに目を覚まし、ほとんどの学生が辞めてしまうというお話には驚きました。
そんな厳しい音楽の世界で活躍し続け得られる秘訣は、やはり憧れであり目標である、ジョン・コルトレーンの存在が大きかったのでしょう。
新アルバムも、ジーンさんの印象のように優しく、かっこいい音楽がたくさんありました。
是非、生の演奏を聴いてみたいです。


プロフィール

Gene Ess Shimosato(ジーン ・シモサト)

1983 年 アメリカの歴史ある音楽雑誌ダウンビートマガジンにて「Theme and Variations 賞」と「Outstanding Performance 賞」を受賞。
1984 年 奨学金でバークリー音楽院進学。
1990 年 バークリー音楽院卒業。
1991 年 ニューヨークに移住。ラッシード・アリとのワールドツアーを敢行。この時期にカルロス・サンタナなどと共演を果たす。
2001 年 ラッシード・アリとの共同プロジェクトでアルバム「NO ONE IN PARTICULAR」を発表。その後ジーンはバンドリーダーとしてのキャリアをスタートさせ、近代的な最先端のジャズミュージックを追求したアルバムのリリースを続ける。
2010 年 アルバム「Modes of Limited Transcendence」がアメリカの著作権管理団体 SESAC による「Outstanding Jazz Performance 賞」を受賞。

◆オフィシャルホームページ
http://gene-ess.com/
◆ジャパンツアー開催中 スケジュールはコチラ
http://gene-ess.com/schedule
◆最新アルバム「ABSURDIST THEATER」
http://amzn.to/2tXnnAJ

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