【押阪 忍】民放テレビ初のフリーアナウンサーとして50年以上活躍を続けるスゴい人!

押阪 忍

本日登場するスゴい人は、フリーアナウンサーとして50年以上活躍を続けるスゴい人!
1958年、日本教育テレビ(現テレビ朝日)の1期生として入社し、7年間にわたりアナウンサーとして活躍。
そして1965年、民放テレビから初のフリーアナウンサーとなり、日本テレビ「特ダネ登場!?」や、TBSの「ベルトクイズQ&Q」、フジテレビの「プロ野球ニュース」などで人気を博した。
81歳の現在もTOKYO FM系(JFN)でレギュラー番組を持ち、今年(2016年)8月には、東京MXや地方局などで放送される「インフォマーシャル番組」で、司会進行もされるという。
また、Vol.1628にご出演いただいた、日本初の試みを多数成功させたディスコDJ、DJ OSSHY氏の父でもある。

さあ…
フリーアナウンサーの草分け
押阪忍様の登場です!

「笑顔の言葉を」

私は5人兄姉の末っ子として生まれました。
戦時中は結核が国民病と言われ、親兄姉は結核で、母は38歳の若さで亡くなりました。
小学校3年生から、父と二人のクレーマークレーマーの生活でした。

東京の大学を受験して合格し、父は喜ぶ半面、経済的な心配をしていましたが、父の同級生であった出羽海親方の出羽海部屋で居候・書生として2年ほどお世話になりながら大学へ通いました。
一生懸命働くと学業がおぼつかなくなり、お暇を頂いて住み込みの家庭教師をしたり、夜警(ガードマン)や教会に住み込んだり、靴磨きのまねごとをしたり、色々な仕事を体験し、当時はめずらしい働く苦学生でした。

私は故郷が岡山県津山市、話す言葉には中国地方の“なまり”があり、時に友人から「かっぺ」と言われ、それを直そうと放送研究会に入部しました。
アイウエオ、アエイウエオアオ・・・最初は優れた人の背中を追っていたのが、次第に上を目指すようになりました。

就職の時期になり、新聞社か放送局を受けてみようと決めた折、大学の医務室から連絡があり、「このまま就職したら死ぬよ」と言われました。結核だったのです。当時の結核は死への恐怖もありました。
メディアの仕事と言えば夜討ち朝駆け、体への負担が非常に大きくなります。
教授から1年留年するように言われ、止む無く1年間入院し勉強し、なんとか日本教育テレビ(現テレビ朝日)に入社できました。

在局中の大きな仕事といえば、1964年の東京オリンピックで金メダルの女子バレー「東洋の魔女」を担当したことでしょうか…。
そして時代は、「木島則夫モーニングショー」の誕生です。テレビの成長期です。
私も「フリーになったら」と言われるようになりました。
フリーになる時には、悩みに悩みました。
自分にやれるか当然不安はありましたが、清水の舞台です。時代を見据え、一人笹舟で大海へ漕ぎ出しました。
結果として人気番組を頂き、今もTOKYO FM系(JFN)で24年のレギュラー番組を務めさせていただいています。

今後は、日本語を感じ良く遣える人を増やしたいと思っています。
今の若い人は早口で乱暴なことばが多いようですね。
世の中、見るが先、ことばは後の映像時代になり、会社でも家庭でも、ことばがあるようで少ない時代になりました。
日本には綺羅 星の如く美しいことばがあるので、それを伝えていきたいですし、しっかりとしたことばを遣える若者を育てていきたいと思っています。

◆株式会社エス・オー・プロモーション
http://so-pro.co.jp/

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