創業91年、省力化装置を構築・製造する町工場を継ぐスゴい人!

様々な経験を積んだ幼少~青年期

人は宝!

創業100年を目指して

本日のスゴい人は、創業91年、日本が誇る技術を継承する町工場を率いる三代目の社長。
ベアリングの世界的メーカーの省力化装置の製造を、65年請け負い続けている。
どのようにして大手メーカーとの信頼関係を構築し続ける町工場になれたのか?

さあ…
株式会社東亜精工 
代表取締役社長 濱田 次郎様の登場です!

様々な経験を積んだ幼少~青年期

幼少の頃は、東宝の女優だった濱口ゆりこという叔母の影響で子役をしていました。
当時はファンタや雪印、リポビタンDなどのCMにも出演していました。
子役は楽しかったのですが、中学受験の前に父から辞めるように言われて辞めました。
高校卒業後、役者を辞めたことが心残りでしたので、大学には行かずに俳優の学校に行きました。
しかし22歳の時、あることがきっかけで役者をあきらめました。
その後、関東大会などで優勝していたビリヤードの技術をかわれ、当時流行りの横浜ベイサイドクラブのマネージャーをしたり、そこの親会社の船舶、外食など様々な業種の経営を手伝わせていただきました。
その後も自分で会社を経営して、並行輸入や自社オリジナルバッグを海外の自社工場で製造するなど、小さい頃から好きなことをさせてくれた両親には本当に感謝しています。
しかし今振り返ると、工場を継ぐのであれば工業大学に行っておけばよかったとつくづく思います。

人は宝!

昭和2年に祖父が創業した工場を、父が昭和35年に受け継ぎ大きく繁栄させたのですが、父が受け継いだ当時で1億円の負債をかかえていたそうです。
父は営業に走り回り、金策にかけずり回ってもどうしようもない状態の時に、ある人物に助けてもらったことがきっかけで立ち直ったと話してくれました。
もちろん力を貸してくださった方と父との間に深い信頼があったからだと思いますが、父は生前から「従業員あっての会社であり、自分の利を考えるより相手の利を考えろ!」と常々言っておりました。
父は工場で構築・製造も自分ですべてを行なっていましたが、常に職人さんとの関係性を大切にしていました。
難しい職人さんは純粋な心の持ち主だからこそ、上辺の付き合いではなく心から接していくことが大切だと教えてくれました。
そして何より、母は父と工場の為に新婚当初から事務仕事や従業員の3食の食事の支度、大家族を抱えた家の全てを行い、現在80歳を超えても工場の為に尽くしてくれています。
母なしでは工場の繁栄はなかったと思い、尊敬しています。
小さい頃からいつも遊び場であった工場ですが、次男なので継ぐということは考えたこともありませんでした。
私がこの工場を継いだのは、父が亡くなった後です。
父が亡くなる前に、次男である私に「工場を継ぐのはお前だ」と言われ、亡くなった後に継ぐと決意するまでが人生での最大の覚悟でした。
工場を継いでから父の言葉の重さをつくづく感じます。
父の代からの番頭さんには今でもお世話になっています。
組織構成こそが、うちのような町工場の最重要課題です。
どんどん数が少なくなっている職人さんですが、技術者として成長していってくれる人材を育てることも町工場の課題です。

創業100年を目指して

大手メーカーさんを通してですが、自社の省力化装置が世界中にあります。
大手メーカーさんとは65年のお付き合いとはいえ、信頼だけに甘んじず、職人のみんなと更なる技術向上を目指しています。
私は、毎日工場で製品作りを学んでいます。
いつか従業員で力を合わせて、うちでしかできない商品を作り出します。
創業100年には、職人一丸となって自社での製品をもつメーカーになれるようにしたいです。
また、個人としては、外食産業への進出を考えております。
今まで様々な経験をさせてもらったからこそ、自分の中でイメージできる夢となってきています。
これも全て両親のお陰だと感謝しています。

取材を終えて

お目にかかった時に作業服を着ていらっしゃったので、第一声が「幼少の頃に子役をしていました。」と言われ、びっくりしました。それからもビリヤード、プールバー、ファッション業界、飲食業界など様々なことをなさっていて器用な方だなんだなと思いました。その上お料理もお好きでお上手だということで、ラーメンは従業員の方々にも振舞っていらっしゃるそうです。こういうマルチなかだからこそ町工場がさらに飛躍されるのだろうと感じました。

プロフィール

濱田 次郎(はまだ・じろう)
株式会社東亜精工場 代表取締役社長 

◆ホームページ http://toaseiko.jp

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう