漫画人生の哲学。試行錯誤の1本目から長期連載を取ったスゴい人!DAY1

賞も獲れず、芸大にも落ち、行きたいアシスタントも断られた――。そんな八方塞がりから夢を追いかけるスタートを切った漫画家、高橋幸慈さん。しかし、その後、大学を出てからはわずか数ヶ月で『週刊ヤングジャンプ』で長期連載を掴みました。不屈の精神と夢を手放さない強さは、高橋さんが持つ哲学に裏打ちされたもの。四半世紀以上、漫画家として第一線で活躍してきた高橋幸慈さんの漫画家としての生き方について伺いました。

DAY2を読む

 何んとかなる! 

 

漫画に初めて触れたのは高校生!漫画家目指し始めるが……

 ──漫画に興味を持たれたのはいつ頃でしょうか。

 子供の頃は漫画を読んでいませんでした。アニメはテレビで見ていたんですけれど。

小学校では漫画を描くのは流行っていました。自分も描いていたんですが、上手いわけではありませんでした。クラスでは別に上手い子がいて、彼らが人気者でしたね。

 

 ──初めて漫画を読まれたのはいつ頃でしょうか。

 高校生で山上たつひこ先生の『がきデカ』を読んだのが初めてです。こんな漫画があるのかと衝撃を受けました。その当時の『少年チャンピオン』にハマっていました。あの頃は『少年チャンピオン』(秋田書店)最強の時代です。『マカロニほうれん荘』、『750ライダー』、『ドカベン』、『魔太郎がくる!!』などが掲載されていました。

藤子不二雄A先生の『魔太郎がくる!!』は俺が初めて買った単行本。実は、先日、藤子不二雄A先生と一緒にゴルフをやる機会がありまして、「俺もついにここまで来たか」と感慨深くなりました。

大学卒業後、何も決まらないまま漫画家になるために上京

 ──高校時代に漫画に興味を持ってから、すぐ漫画家になろうと思われたんでしょうか。

 高校3年生の進路を決める時には、既に漫画家になろうと決めていました。

そこで芸大も受けたんですが、落ちてしまって。ではアシスタントをやろうと考えて、好きな先生に打診してみたんですが断られてしまったんです。

どうしようか考えて、試験が遅かった全く関係ない函館の大学を受けて合格したので、そこで目一杯漫画を描くぞ!って決めて函館に行きました。

ところが函館はいいところでね。遊んでしまっていました(笑)。麻雀とバイク。北海道の人は優しいんですよ。俺が麻雀を覚えたのは関西にいた頃だったので、引っかけも普通にやるんですが、北海道では人が良い人が多くて、すぐ引っかかってくれる。北海道制覇できるんじゃないかと思ってしまうくらいでした。

一応、漫画も1本か2本、描いて賞に出してはいたんですが、全く引っかかりませんでした。

 

──上京されたのは大学を卒業されてからとのことですが、進路の目処はあったのでしょうか。

 何にも決まっていませんでしたよ。漫画家になるなら、もっと真面目にやらないとと腹をくくって、就職活動もしないで、文字通り、身一つで函館から東京に移りました。持ち込みをしながら、とりあえずバイトでもしようかと思っていたところ、運良く、友達の紹介で、木材運びのバイトがすぐに決まりました。建築資材のベニヤ板などを運ぶ仕事です。

 

──漫画家を目指すことにご両親や周囲の反対はなかったのでしょうか。

 もちろん反対はありましたよ。でも、あったとしても関係ないでしょう。援助を受けるわけではないので、自分で決めることです。友達も応援はしてくれてはいましたけど、誰も漫画家になるなんて真に受けてはいなかったですね。

「漫画家になるから東京に行くわ」って言った時は、全員アホかと思っていたんじゃないでしょうか。頑張ってこいよとは言ってはくれますが、鼻で笑ってましたね(笑)。

1年も立たずにデビュー!手探りから『押忍!!空手部』連載開始

 ──ハードな肉体労働のアルバイトで生計を立てながら、オフの時間に漫画を描けましたか?

 描けないですよ。仕事は、コンパネという厚いベニヤ板を10枚持つ必要があったんですが、最初は一度にそんなにたくさんは持てない状態でした。それが、そのうち持てるようになる。かなり筋肉は鍛えられました。

それくらいハードなものだから、休みの日には半日寝てしまって、起きて漫画を描き始めると数コマしか進まないんです。

集英社の『ヤングジャンプ』に持ち込みをして、アシスタントをしたいと相談したところ、名刺がてらにネームを1本作れと言われていました。ですが、そのネーム描くのも半年かかってるんです。ネームがやっと出来上がって、編集部に見せたところ、奨学金を出すと言っていただいて。

マジですか!じゃあペン入れだ、と意気込んで取り掛かったものの、それも1ヶ月か2ヶ月かかってしまいました。

その漫画は、12月に仕上がって、1月の新人賞を受賞して、4月くらいから連載が始まりました。苦節8ヶ月くらい(笑)。これが『押忍!!空手部』です。

 

──新人でいきなりデビュー作が連載になったんですか!?

 当時、副編集長だった編集さんが「これは読み切りではなくて、連載の方が面白くなりそうだから連載にしよう」と言って。編集長は「この絵で、経験もないのに大丈夫だろうか」と言っていたので、編集部でも不安はあったようです。そこでひとまず隔週連載という形を取ることになりました。制作時間に余裕をもたせた間にネームを作りためておくという方法です。

そして連載が始まったんですが、なかなか人気が出なくて。対応として4週短期集中連載が決定しました。ここで人気が取れたら週刊連載に移ることになります。

その4話で人気を獲得して、連載が決まりました。

手探りの中、出せなかった本気。起死回生の短期集中連載から長期連載へ

 ──ターニングポイントになったその4週のエピソードは、どの部分でしょうか。

 最初の高木と安藤が喧嘩をするところですね。人気を取ることが課題でしたから「人気を取るには戦いだ」と判断して。

『押忍!!空手部』は初めは学園モノで描いていたんですが、そんなぬるいことをやっている場合ではないと思って、タイマンの漫画にシフトしたんです。

 

──短期で人気が出た作品が隔週では人気が出なかった理由ってなんでしょうか。

 おそらく、自分自身、本気を出してなかったんですよね。初めての連載で何もわからない手探り状態で、いろんな引き出しを出していこうとしていました。これもできる、あれもできると入れていった結果、ブレてしまっていた。そもそも、人気ってどうやれば出てくるのか、それすら全くわかっていなかったんです。

松下と高木、どちらが主人公に向いているかというのも悩んで、当時の副編集長が「これは高木だろう」と即答で一言くれたことで、松下に助けられながら、高木が安藤と戦うストーリーに確定しました。

俺の漫画は一貫性がなくて、途中から面白くなるんです。途中から面白くなるから!と、待ってもらったことで人気が出ました。

 

──人気で今後が決まる漫画の世界で、なかなかそういうチャンスがいただけたことは貴重だったのではないでしょうか。

 今はもう、あまりこういうケースはないと思います。現在は合議制で、編集会議でいろんな人の意見で決定していきます。昔は編集長が行くぞと言えばOKということもある。人気がなくても、続けることで見込みがあるなら、続けさせてもらうこともできました。

 

──『ジャンプ』は若い作家を育てると言われていますよね。

 有名な先生はもう『マガジン』と『サンデー』の2誌で連載していますからね。もう1誌描くのは難しいから、ジャンプは漫画家を新しく開拓するしかなかった。その結果、漫画家を育てるノウハウが蓄積されて行ったと聞いています。

ただ、この作家と編集が密になって作るやり方はお互い負担が大きいですね──……。

 

──才能があるのに売れる前に潰れてしまう作家も、編集さんがサポートする必要がありますよね。新人にとって、担当編集さんの力は大きいということでしょうか。

 そうです。新人のうちは編集が9割だと思います。編集さんの力や相性はとても重要ですね。これは今でも同じです。

 (2DAYに続く)

 インタビュー:アレス  ライター:久世薫  校正:守安法子

高橋 幸慈(たかはし こうじ) プロフィール:

大阪府四條畷市出身。高校生の頃まで漫画を読んだことがなかったものの、初めて読んだ『がきデカ』(秋田書店)に感銘を受け、漫画家を目指す。大学卒業後、何も決まらないまま単身で上京。編集から見込まれ、同年に『週刊ヤングジャンプ』で『押忍!!空手部』連載を開始。ギャグ漫画路線からバトル漫画に路線変更した後に、43巻に及ぶ長寿作品となる。代表作は『押忍!!空手部』の他に『超格闘伝説 あした輝け!』『わっぱ烈伝 爆造』等。プライベートではゴルフやキャンプをたしなみ、筋トレも欠かさないアクティブな面を持つ。

 Twitter:https://twitter.com/370119

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