北の大地に育まれて故郷を想い、漫画を描き続けるスゴい人DAY1▶本庄敬様

「自分は寿都人(すっつびと)」――そう話してくれたのは『蒼太の包丁』作画を担当している漫画家の本庄敬先生。北海道の寿都で生まれ育ち、第32回手塚賞で準入選して週刊少年ジャンプ増刊号でデビューしたのが1986年のこと。それから35年もの間、漫画家として活躍を続けています。故郷を愛し、たびたび寿都への想いが感じられる描写のある本庄先生の作品は、人や自然が織りなすドラマの魅力に溢れています。そんな本庄先生の生い立ちから漫画家としての半生について伺いました。さあ、漫画家の本庄敬先生の登場です!

けっぱれー!今にいいことがきっとあります! 

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生まれ育ちは漁師町の寿都。お調子者だった幼少期

──早速ですがどんな幼少期を過ごされていましたか。

落ち着きがなくて、お調子者でした。その上すぐにいじけたり文句を言ったり。いわゆる『いい子』とはほど遠い性格でした。大人になっても、根っこの部分は変わらないですね。だいぶ落ち着きはしたけれど、お酒を飲んだり有名な先生とご一緒すると、すぐに舞い上がってしまう。すぐにわかると思いますよ(笑)

 

──絵は描かれてたんですか?

好きでした。他に取り柄がないんです。親も他に何もできない子だと思うと不憫になるのか、うまいとたくさん褒めてくれました。褒められると、調子に乗ってしまう性なので、ますます絵を描くようになりました。

でも当時は絵を描く子どもが多かった。札幌あたりから転校生が来ると、これがとても上手い。それを見て凄いショックを受けていました。よく今まで続けてこられたなと自分でも思います。

勧められて漫画を学びに専門学校に進学。楽しくて仕方がなかった学生時代

──東京の千代田工科芸術専門学校に進学されましたが、いつ頃から漫画家を目指されていたんでしょうか。

漫画家には興味があったけれど、なれるとも思っていませんでした。親父が雇船頭、いわゆるやん衆で、いろんな地方の漁場を回っていました。自分にとって、漫画家は子どもがアイドルを目指すって語るような遠い憧れの夢。現実に思い描いていた将来は漁師でした。将来、お金を貯めて寿都で親父と二代で船を持ちたいと思っていました。

そんな中、高校の先生が漫画の専門学校を紹介してくれました。当時は漫画が学べる専門学校は東京デザイナー学院と代々木アニメーション学院、そして千代田工科芸術専門学校の3校だけでした。どうせ漁師になるんだからと断りましたが、それでも先生は奨学金もあるから親と相談してみなさいと、熱心に勧めてくれたんです。

 

──そして受けることになったんですね。

親も自分にそこまでの才能があるとは思っていませんでした。そこまで言ってくれるなら受けてみればいいということになって。絵を描いて送りましたが、先生も上手いとは思っていなかったようです。自分も受かるとは思っていなかった。でも生徒が少なかったのか、無事合格し、入学金も免除になりました。

親父は、若いときに好きなことをさせないと歳を取ってからもずっと文句を言われるだろうからと、あっさり東京行きを承諾してくれました。

 

──専門学校での生活はどうでしたか?

とにかく楽しかったですね。「この細っこいのが面相筆か!」というように目に入るものすべてが新鮮で面白かった。寿都では画材屋なんてありませんし、絵の具といえば学用品の12色入ったものくらい、筆も小学生から使うような水彩筆くらいしか手に入りません。漫画の描き方の本を見ていて、面相筆の存在は知っていても、現物を見る機会がなかったんです。修学旅行のときは伊東屋に行きましたが、あの時は体が震えました。入学してからは寮に入りました。4畳半の部屋に2人ずつ暮らしていました。全国から漫画少年が集まっていて、中には見たことがない画材を持っている人もいました。そういう人は、すぐにジャンプなどの編集部に持ち込みをしていました。凄いなと思いましたよね。1年だけは漫画のことだけ考えていられる幸せを噛み締めていました。

 

紆余曲折し札幌の石川サブロウ先生のアシスタントに

──ご自身は持ち込みはされましたか?

友人たちにこのまま帰って漁師になるのはもったいないと言われていましたが、卒業に向けて描いたのが8Pのキタキツネの漫画でした。持ち込みには持っていけないですよね。

そうこうするうちに、同級生だった池田(編集注:漫画家の池田文春先生)に「平松伸二先生のアシスタントに一緒にいかないか」と誘われて、見学かたがた一晩お邪魔させていただいたんです。あの頃は猿渡哲也先生がアシスタントだった頃かな?初めて週刊連載の現場を目の当たりにしました。池田はずっと漫画をやってきていたけれど、自分は役に立てるかわからない。トーン貼りと消しゴムかけだけでもと手伝ったんですが、もったいないからって小さいトーンを指定と違う方法で使っちゃった。雑誌が出て驚いたんですが、掲載時にはすべて直っていました。きっと猿渡先生が直してくれたんだと思います。

 

──貴重な体験ですね。やがて石川サブロウ先生のところに入ったと伺いましたが。

石川先生のアシスタントに入ったときは札幌で描かれていたときでした。石川先生のファンでしたし、北海道に帰りたかったということもありました。しばらくアシスタントさせていただいたんですが、21歳のときに石川先生が東京に戻ることになったんです。石川先生にどうするか聞かれたんですが、自分は北海道に残りますと決めていました。ルスツの方で動物の飼育員募集してる話もあって。これもまたいいなと。

本気で漫画家になろうと決めたきっかけは友人への想い

──東京に来られたのは何か漫画への意識が変わることがあったんですか?

石川先生の仕事場まで、実家の寿都から車で通っていました。昔から銭湯が好きで、仕事に行く前に銭湯に立ち寄っていたんですが、ある時、銭湯の前に幼馴染の親友が待ってたんです。話があると言うので、車の中でタバコをふかしながらちょっと話をしたんです。その友達は芸能人になるのが夢で、松田優作さんが大好きで。彼に少し似ていました。だから何かに挑戦するといったことはなかったんですが。彼に「お前は漫画家になるって夢があるんだから、叶えて漫画家になってけれよ。夢を託すようなもんだから」と言われたんです。妙な気持ちになって、「なれるわけねえべ!」と答えていました。

それから仕事場に行ったんですが、みんなが帰った後、自分は上手くないので絵の練習をしていました。風が強い日でした。なぜか仮眠室のドアが何度もバタン、バタンと開いていました。重たいドアなのでそう開くとも思えないんですが。奇妙だと思いながらも仮眠を取ろうとすると電話が入りました。親友が事故で亡くなった知らせでした。

 

──事故に遭われたんですか……

それからしばらく考えて、とりあえず自分は頑張ってみようと。先生に「連れて行ってください」と伝えました。本気で漫画家になろうと思ったのはそのときからです。だからデビューすればやめてもいいと思いました。なることが夢になった。でもデビューすれば今度は連載を持ちたくなる。連載を持てば次は単行本を出したくなるんです。

 

(2DAYに続く)

インタビュー・ライター・撮影:久世薫 企画:アレス

 

▶本庄敬(ほんじょうけい)氏 プロフィール:

北海道の寿都郡に産まれ、高校卒業後に千代田工科芸術専門学校に進学。石川サブロウ先生のアシスタントとして働く。後に手塚賞で準入選しデビュー。その後『蒼太の包丁』や『文豪の食彩』など数々の作品を発表。現在、漫画家としての活動に加え、寿都人プロジェクトを主宰し、寿都の将来のためにと漫画を通じて活動している。

 

本庄敬公式サイト:http://www2u.biglobe.ne.jp/~ok-123/honjou/

Twitter:https://twitter.com/honjo_kei

寿都人プロジェクト公式サイト:https://suttsu.official.ec/

 

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