画業50周年!時代と人を描き続けるスゴい人 DAY1▶村上もとか様

本日お迎えしたのは、大ヒットドラマにもなった漫画『JIN-仁-』の作者、村上もとか先生。半世紀にわたるキャリアの中で『六三四の剣』『-RON-』といった数々の名作を生み出し続け、まだまだ現役街道を快走中。様々なジャンルや時代を幅広く手掛けられた作品に共通しているのは『人』のドラマであること。今も尽きない熱量で時代と人を描き続けている村上先生に幼少期からの人生と作品について伺いました。

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子どもの頃、誰もが絵を描くのが当たり前だと思っていた

──小さい頃はどのような子どもでしたか?

映画会社で美術の仕事していた父と姉が3人いました。女の子ってよく絵を描くじゃないですか。父もよく家で仕事の絵を描いていたので、小さい頃は人が絵を描くのは当たり前と思っていたところがありました。

僕も紙と鉛筆を持たせておけば勝手に何か描いているような子どもでした。

 

──映画もよく見られていたんですか?

父が勤めていたのは昔東京にあった新東宝という映画会社です。当時近くに住んでいたので、機会があれば職場に連れていってもらうことがありました。父が仕事中にスタジオを見学させてもらったり。楽しい思い出ですね。

 

──何か作品を形にしたいと思ったのはお父様の影響があったんでしょうか?

それはあまりないと思います。姉たちはやっぱり、かわいい女の子を描くんですよ。バレリーナとか。それを自分も見様見真似で描くんだけれど、女の子だけ描いていてもつまらないんですよね(笑) バレリーナをダンプカーが追いかけているようなアクションのある絵を描いていたのは覚えています。まだ字が書けなかったから、吹き出しの中に「✕✕✕!」とか描いたりしていましたね。

 

友達の輪に馴染めないで過ごした小学校時代

──まだ字を書けない頃っていうと幼稚園くらいでしょうか。その歳にしては絵で描くものに具体性が有る気がします。

幼稚園には行かなかったんですよ。読み書きは母が家で教えてくれたので小学校に入っても勉強にはついていけたんですが、一番困ったことはお遊戯ですね。先生が「ああしてこうして」という指示が、幼稚園からやっている子たちは何となくわかる。だからみんなパッと動くんだけれど、自分はわからないんですよ。パニック状態。

 

──小学校に馴染むことが難しかったということですか?

転居したことも原因だと思いますが、野球とか遊んでいる友達の輪には入れてもらえませんでした。野球で入れてもらえないと、他のことでも悉く入るのが難しくなるんですよね。最初に「コイツとろいな」って思われちゃうと、体を使った遊びに呼んでもらえないんです。馴染めないまま6年が過ぎました。

 

──団体行動が苦手だったんですね。そういえば『六三四の剣』などスポーツものを描かれていますが個人競技ですよね。

団体は今でも苦手かな。まだ引きずっている(笑)。個人スポーツが好きなのはそういうところがあるかもしれません。見るのもやるのも個人スポーツが好きで。チームスポーツは今でこそ見るけれど、自分でやりたいと思うことはなかったです。陸上競技とかね。黙々とやっていって成績が伸びていくのがいいなあって。黙々と続けることで伸びるのは絵と似ています。

絵が自分のアイデンティティだと気づいて夢を追い始めた

──スポーツ以外の団体行動も苦手だったんでしょうか。学校では合奏などもありますよね。

音楽がまた苦手で。カスタネットの担当になって演奏しているうちに「何か違う」ってカスタネットからも外されて。結局、空き缶拾って来いと言われて、拾った空き缶に砂を入れて、ザザーって合奏していました。

子どもの頃って音楽ができる子って注目されるでしょう。スポーツもだめ、音楽もだめとなると注目されるようなことって絵しかない。

小学校の同級生からは「何もできないけれど絵だけは凄い」と認識されていたので、漫画家になったと言ったら「やっぱりね」って言われますね。

 

──絵しかないとその頃から思われていたんですね。他になりたいものはなかったんですか?

絵が描けるっていうのはアイデンティティだったんですよね。本当はジェット・パイロットになりたかったんだけど、いろいろ考えて無理かなあと。算数できないから無理かなとか、虫歯があったらなれないと聞いて、虫歯多いからダメだなとか。それで諦めて。それで次に見た夢が挿絵画家でした。当時は漫画といえば頭身が低いキャラクターで描かれるもので劇画のようなかっこよさがなかったんです。漫画も好きだったけれど絵物語のほうが好きで、リアルなタッチの挿絵画家に憧れました。樺島勝一先生や山川惣治先生のように自分でストーリーを書いて自分で挿絵をつける。これが最高のスターだと思っていました。それを意識したのが小学校時代6年くらいです。そして中学に進んで、高校まで美術部一本で過ごしました。

 

──最初は挿絵画家を目指されていたんですね。

高校に入った頃、少年漫画に革命が起きたんです。劇画要素のものもどんどん入ってきて雑誌の殆どが漫画になった。絵物語は消えていき、それに伴い挿絵画家もいなくなっていきました。困りましたよね。なりたいと思った職業が数年で消えてしまったんですから。

挿絵画家の夢を失い、漫画家を目指すことに

──なりたい職業が消えてしまうのはショックですね。

どうしようかなと思っていた高校一年生くらいのとき、手塚治虫先生の『COM』に出会いまして。アマチュアの人たちが漫画を描く自由なテーマの雑誌です。これをやってみたいと思って、漫画を見様見真似で描き始めました。高校二年になった頃、美術部にプロの先生のところに出入りして本気で漫画をやっている子が2人も入ってきました。彼らに描き方を教わったりして、すっかりハマってしまいました。

 

──そこで漫画家を目指そうと?

COM』や『ガロ』に投稿して賞を取りたいと思い始めて、漫画を描くことが面白くて仕方がなかった時期です。ただ具体的には「漫画家になろう」とはまだ考えてなかったです。漫画らしい絵じゃない劇画でも成り立つのが魅力でしたから。『COM』の表紙に「漫画エリートのための漫画専門誌」ってキャッチコピーが書かれていたんです。なんだかよくわからないけれど「漫画エリートになりたい」って思ったんですよね(笑)。

 

──高校卒業後は建築関係の学校に進まれていますよね。

美大に行こうと思った時期もありましたが、それだけ漫画に夢中になっていると当然大学受験の勉強なんてできなかったですから、受験はやめてモラトリアム的に建築の専門学校に入りました。でもそこで本当に建築をやりたい人たちと出会い、自分と熱意が全然違うことを思い知りました。それで建築は向いていないと、卒業はしたけれど進路を変更、『サインはV!』の作者、望月あきら先生のところにアシスタントとして押しかけました。そこで初めて漫画家になるかもと考えるようになりました。

アシスタントチーム解散や投稿雑誌廃刊。順風ではなかった漫画家デビューへの道のり

──漫画家を目指して行動を起こされたんですね。

望月先生は優しい人でした。お体が弱かったので自分が行くようになってから三ヶ月で長期療養されることになり、アシスタントチームも解散することになりました。

解散後は『COM』に投稿を始めました。何作か描いたときに入賞の連絡をいただいて。「年間グランドチャンピオンになるためにもう一作描いて」と言われて、有頂天になって作品を描いたんです。が、そこで『COM』が廃刊になってしまったんです。作品が載ることもなく幻になってしまいました。

 

──凄いタイミングですね…。その後はどうされたんですか?

COM』が無くなってしまい、当時一番門戸が開かれていたのが手塚賞や月例新人賞がある『少年ジャンプ』でした。どちらにも応募したのですが落選しましたね。

後から考えたら当たり前なんですよ。「ジャンプ読んでないでしょう?」と言われても反論できないような作品でしたから。

 

──しかしデビューはやはり『週刊少年ジャンプ』でした。きっかけを伺えますか。

編集部から「今度新連載の実在のレーサーの自伝を元にする企画があるんだけれど、やってみないか?」と電話がありました。応募作で自動車を描いていたので好きだろう?と言われて。よくわからないけれどデビューできるなら嬉しい!と引き受けました。デビュー作が10週連載だったんですが、最初は何もわからなくてパニック状態でしたね。今まで1ヶ月、2ヶ月もかけて30ページくらいを好きに描いていたのにいきなり週刊のペースで死にそうでしたね。

道を求める人の熱量と出会い自分自身の熱量に疑問を持つ

──未経験からの初めての連載は大変だったと思いますが……

新人が3人作品連載を始めたんだけど、そのときの作品が中島徳博先生の『アストロ球団』。飼育員の西山登志雄さんを描いた飯森広一先生の『ぼくの動物園日記』、そして僕が描いたのがレーサー浮谷東次郎さんの『燃えて走れ!』です。『アストロ球団』、『ぼくの動物園日記』はヒットしました。僕の『燃えて走れ!』も5本くらい描いた頃、読者の反応は悪くはなかったと思います。そこで編集から続けるかどうかを聞かれて、迷わず「もちろん辞めます」と(笑)。

 

──そこで辞めちゃうんですか!

もう勘弁してくださいという心境で。でも終わったはいいけれど、次がノーアイデアなんですよ。暫くして編集部から同時に連載を始めた人の現場へ行ってくれと言われて、手伝いに行ったんですが、新人作家の熱意を目の当たりして「ヤバい」と思いました。何度もボツになってそれでもしがみついて、やっと手に入れたチャンスをどうにかモノにしようという鬼気迫った姿に、自分はここにいちゃいけない人間なんじゃないかと思うこともありました。

 

──建築の学校でのエピソードにもありましたが、他人の熱意に対してとても敬意を持ってらっしゃいますよね。

だって夢中になっている人を見れば凄いなって思うし、自分には何があるんだろうと改めて考えます。この人みたいに、僕がキラキラ夢中になるものってなんだろうって考えたときにやっぱり自分は漫画だと漫画家になりました。いざなってみると、自分みたいな半端と違って真剣にやってチャンスをもらったという人の気合の入り方が羨ましかったんですよね。僕なんて眠たい辞めたいと思っていたのに。未だに忘れられないです。

(2DAYに続く)

インタビュー・ライター:久世薫

村上もとか(むらかみもとか) プロフィール:

漫画家。1972年『少年ジャンプ』でレーサー浮谷東次郎題材の原作を元に描いた『燃えて走れ!』でデビュー。多彩な作品でその才能を発揮。『岳人物語』 第6回講談社漫画賞少年部門を受賞し、その後多くの作品で数々の賞を受賞した。代表作に『六三四の剣』『JIN--』『RON-龍-』などがある。

執筆活動の傍ら、交流のある漫画家たちと、漫画家グループ「ぽけまん」を発足。イベント参加・チャリティ等、様々な活動を行う。

2022年、画業50周年を記念し、弥生美術館で『村上もとか』展を開催。現在も一線で活躍し続けている。

「ぽけまん」公式サイト:http://pokeman.jp/

Twitter:@motoka_murakami

 

村上もとか展

会期:2022(令和4)64()~925()

開館時間:午前1000〜午後500(入館は430分まで)

722日より、毎週金曜日は午後8時まで開館(入館は午後730分まで)

会場:弥生美術館

料金:一般1000円/大・高生 900円/中・小生500

公式サイト:https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/

 

 

 

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