将来の夢はもちろん漫画家
不良は大っ嫌い!?
漫画家か住職か、後継問題を乗り越えて
不良たちの日々を描き、「週刊少年ジャンプ」が650万部を誇った黄金期を支え、8年以上連載された『ろくでなしBLUES』
映像化され、ドラマも映画も大ヒットを記録した野球漫画『ROOKIES』
他に例の無い、お笑い芸人を描く青春劇『べしゃり暮らし』
これら全ての作品の作者が、今回登場するスゴい人。
さあ…
漫画家
森田 まさのり様の登場です!
将来の夢はもちろん漫画家
授業中、シーンとしている時「今ここで歌ったら面白いよなぁ」なんて考える子どもでした。
実際「旅行けばぁ~♪」って歌ったんですが、あまりウケなかった(笑)
小学生の頃は、格好良いか足が速いかが人気者の条件で、段々、面白いとか頭が良いとかっていうのが入ってくる。
僕は毎日、どうしたらウケるか考えていました。
目立ちたかったんです。
漫画が好きで、チラシ裏に描いたりしていましたが、小学4年生の時に学校で漫画クラブを作りました。
『まんが道』に影響されて、僕も藤子不二雄先生のように合作したい!と思って。
『ドラえもん』のような丸っこいタッチで、最初に描いた漫画は30ページの『土地野(ど
じの)さん家のたけしくん』ってギャグ漫画。
ケント紙に描くっていう知識はあったんですが、鉛筆で表裏に描いていました(笑)
将来の夢はもちろん漫画家でしたが、家がお寺なので「お坊さんにもならなきゃなぁ」と思っていました。
担当編集との運命の出会い
中学に入り、投稿を始めました。
最初に投稿したのは、当時創刊されたばかりの「コロコロコミック」。
新人賞に投稿したんですが、全然ダメで。
翌年『ドカベン』を読んでいた「チャンピオン」にも送ったんですが、何の音沙汰もなし。
応募作がちゃんと届いているのか心配になり、中学3年生の夏、東京へ行きました。
出版社回りですね。
虫プロと藤子プロ、つのだじろう先生のお宅にまでお邪魔しました。
出版社では「週刊少年ジャンプ」だけが原稿をちゃんと見てくれたんです。
その編集さんが(後の8代目編集長)茨木さん。
「ここは新しいね」とか、良いところを探そうとして下さって。
高校1年生の時に再度持ち込んだ際も、偶然茨木さんに当たりました。
それから担当になっていただいた。
学校に通いながら、ネーム(漫画の設計図的なもの)を描いて、できたら見せて、それを直す。
「手塚賞」に4回応募して、佳作2回と最終候補2回に選ばれました。
親は寺を継がせる気でしたが、どうしても漫画家になりたくて「大学に行ったと思って、4年間だけ東京に行かせてくれ。4年で連載を取れなかったら諦める」と、説得しました。
その時は「結局は寺を継ぐんだから、その前に好きな事をやらせてあげよう」くらいの感じだったと思います。
不良は大っ嫌い!?
最初の1年はアシスタントをやると決めて、北条司先生のところに行ったんです。
タッチが似ていたので、鍛えてもらいたくて。
でも、手が足りているからと、原哲夫先生をご紹介いただけた。
「北斗の拳」は大好きでしたが、「この絵は無理!僕で大丈夫か?」と心配でした。
ところが、絵を見てOKをいただきまして。
それからみっちり勉強させていただきました。
1年経つ頃、ちょうど良いネームができて、辞めました。
それが『SYNCHRONICITY』という読切で増刊号に載って。
次の『LET'S SPEND THE NIGHT TOGETHER』という読切では、新人なのに巻頭カラーをいただきました。
『BACHI-ATARI ROCK』で本誌初掲載。
不良少年を描こうと思ったのは、小林まこと先生の『I am マッコイ』の影響。
僕も担当も好きな漫画で、ああいうノリでやりたいね、と。
高校を出てすぐ漫画家の道へ進んだから、社会経験が全然ない。
だから学園ものしか描けなかった。
不良に憧れとか好意とか全然なくて、というか大っ嫌いなんですけど(笑)
あえて言えば「こういう不良になれ」という感じですかね。
編集部での評判が良かったようで、なんとか連載まで行けました。
上京4年で連載デビュー!
上京4年目で『ろくでなしBLUES』の連載が決まりました。
「小兵二」は、モデルになったアシスタントがいます。
良い絵が描けたら、椅子に上がって「おっしゃ〜!」とか言ってましたね(笑)
『ロクデナシ』って曲がありますよと、「THE BLUE HEARTS」は彼に教えてもらったんです。
「Sex Pistols」を聴いた時と同じ衝撃を受けました。
『ROOKIES』は松坂ブームの頃。
教師を主人公にしたんですが、学園ものにするか野球ものにするか、迷っていました。
結局、不良が更生するために何かやらせねばと、野球に決めたんです。
「安仁屋」って、実は松坂のモーションなんです。
松坂を見ながら描いていましたからね。これは初告白(笑)
昔からお笑いがとても好きで、『べしゃり暮らし』は、いつか描きたかった作品でした。
『THE MANZAI』という番組で、「紳助・竜介」が大好きだった。
舞台が終わって、ハケてくる紳助を舞台袖から撮っているんですが、真顔なんです。
裏にどんなドラマがあるんだろう、と感じさせられて。
お笑い自体ではなく、そういう舞台裏のような事を漫画にしたいなと。
漫画家か住職か、後継問題を乗り越えて
父が『ろくでなし』連載中に亡くなって、後継をどうするか問題になりました。
僕が「いずれ帰る」と言い続けていたのが悪いんですが、親も檀家さんも、連載が終わたら僕が継ぐものと思っていたんです。
親戚に代理で住職をしてもらうことになって、10年くらい前まで続いていた。
いい加減、正式に解決しなくては、ということで、お寺の子に養子に来てもらいました。
『ROOKIES』があと何週かで終わるという時に、過労で立てなくなりました。
ちょっと横になろうとソファに横たわったら、視野が狭くなって、そのまま動けなくなって。
『ろくでなし』の時も、連載中一度も風邪をひかなかったのに、最終回直前でやられました。
終わりが見えてくると気が緩むんですかね。
週刊連載は難しくなってきて、『べしゃり』も途中から隔週連載にしていただきました。
『べしゃり暮らし』の続編を描きたい
仕事のこだわりは、やっぱり原先生の影響が一番。僕の画風の原点です。
描き込む先生なので、僕も描き込むようになりましたね。
絵に関しては絶対に手を抜かない。
僕は表情…特に口の表情だけは人に負けないようにと、発音どおりの口が描けるように頑張りました。
表情にこだわる、ってことを大事にしております。
最近『とびだせビャクドー! ジッセンジャー』という絵本を出しました。
龍谷大学の学生さんたちが、子どもたちに仏教に親しんでもらうために、ヒーローショーをやっているんですが、その絵本化。
常日頃、寺を継がずに漫画家になったことに申し訳なさを感じていましたので、檀家さんたちも喜んでくれるかな、という気持ちもありました。
今後は、ドラマ化など何かきっかけがあれば、是非『べしゃり暮らし』の続編を描きたいです。
取材を終えて
子どもの頃から漫画が大好きで、小学4年生の時に校長先生に直訴して、漫画クラブを設立。
中学1年生で出版社回り、高校在学中に雑誌掲載を果たし、宣言通りに4年目で連載デビュー。
まさに影響を受けたという『まんが道』のエピソードのような話だと思いました。
取材後の雑談で「ホラー漫画を描いてみたいなと思って、ネームを描いてみたんですけど、あんまりホラーにならなかったですね。もうちょっと怖くしたかったんですが、ミステリーになってしまった(笑)」とおっしゃっていましたが、その作品も是非読んでみたいです。
メッセージボードにも書かれた名言を生んだ『べしゃり暮らし』の続編、首を長くしながらお待ちしております。
プロフィール
森田 まさのり(もりた・まさのり)
漫画家
1966年生まれ。滋賀県栗東市出身。
高校在学中に『IT'S LATE』で手塚賞佳作を受賞。
高校卒業後上京、『北斗の拳』原哲夫のアシスタントをつとめる。
読み切り掲載などを経て、1988年『ろくでなしBLUES』連載、1998年『ROOKIES』連載、人気を博す。
2005年から連載された『べしゃり暮らし』は、途中掲載誌を「週刊ヤングジャンプ」に移し、2015年、好評のうちに最終回を迎えた。
2017年、初の絵本『とびだせビャクドー!ジッセンジャー』を発表。龍谷大学の学生による仏教をテーマにしたヒーローショーを元に、作画を手がけた作品。
◆『とびだせビャクドー!ジッセンジャー』(本願寺出版社)
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◆人気マンガ家が描く、仏教絵本が完成!『とびだせビャクドー! ジッセンジャー』森田まさのりさんインタビュー
http://www.ehonnavi.net/specialcontents/contents.asp?id=322
◆amazon 著者ページ
http://amzn.to/2wXFBju