地域・地方PRで成果を出し続けているスゴい人!

ズラしの考えが生まれた瞬間

独自のネットワークづくり

PRの仕事が180度変化した

本日登場するのは、地方の自治体や伝統文化のPRを積極的に引き受け、成果を出
し続けているスゴい人。
毎年12月にその年をイメージする「今年の漢字」が清水寺で書かれている報道を見たこと
があるだろうか?このPRを機に日本に漢字検定が加速的に普及して行った。
彦根というと何を思い出すだろうか?きっと彦根城よりゆるキャラである「ひこにゃん」
を思い出す人の方が多いかもしれない。
「うどん県」という言葉も知っているだろう。
これらはすべて本日登場するスゴい人の手掛けた仕事の一部。
沢山のPRを手がけ成功してきたが、ある事をきっかけに予算のない地方や自治体を、視点をズラす独特の手法でPRするようになった。
彼女のPR視点はどのようにして作られたのだろうか。

さあ…
株式会社T.M.オフィス
代表取締役 PRプロデューサー 殿村美樹様の登場です!

衝撃的な母との思い出

父は戦争から戻り絵描きになり、モデルをしていた母と駆け落ちしました。
父の絵が京都新聞社賞を受賞した頃は羽振りがよかったのですが、私が小学5年生の頃には絵も売れなくなり、母が祇園で働き始めました。
ホステスをしていたのですが、そこで別の男性と出会い、毎晩夫婦喧嘩が絶えなかったのです。
私は喧嘩の間に入れば治まると思い、母の帰りを眠らずに待っていました。
いつものように喧嘩が始まったので仲裁に入ると「あんたなんかいらん!」と言って、ハイヒールで私の顔を蹴って出ていきました。
ここまで母に嫌われていたのだと小学生の私は傷つき、今でもこの傷は心の底に重く横たわっています

ズラしの考えが生まれた瞬間

田舎に住んでいたので、母が男性と出て行った事はすぐに町中に知れ渡り、学校でイジメられました。
学校からの帰り道、商店のおばちゃんが「美樹ちゃんどうしたの?」と声をかけてくれました。
私は泣きながら、学校にも家にも居場所がないと話すと「ここにいたらいいよ」と言ってくれたのです。
それからお手伝いをするようになり、家庭を気遣ってくれ、帰りに店番代と売れ残ったパンや野菜をくれたので父も喜んでくれました。
そのお店では皆が笑顔で居心地が良かったです。
この時初めて、学校と家以外の世界を知りました。
同じ時間を生きているのに、場所が違うだけでこんなに違うのだと幼心に驚きました。
もしかしたらこれが、現状から少し視点をズラしてスポットを当てるという考え方の元となっているのかもしれません。

PRという仕事との出会い

高校生からバイトはしていましたが、大学生になると早朝は豆腐屋さん、午前中は病院の受付、午後はファストフード店、夜は家庭教師という風に掛け持ちをしていました。
奨学金は貰いましたが生活費が必要だったので、最低でも月20万円稼がないと暮らしていけなかったのです。
ファストフードの職場では、幹部会議に出るまでになっていました。
それが縁で、商社に入りたくて就職活動をしたものの40社全て落ちてしまったのですが、想像もしていなかった大手広告代理店に入社することになりました。
そこでPRという仕事に出逢いました。
広告のことをまったく知らなかったからだと思いますが、私には、広告より真実を伝えるPRの方が社会に役立つように思いました。
父が「自分の絵を朝日新聞の美術欄に載せたら売れる」と口癖の様に言っていたので、いつか朝日新聞に父の絵を売り込んで掲載してもらおう!と邪な気持ちもありました。

独自のネットワークづくり

社内結婚を期に私は広告代理店を退職し、関連会社のPR会社が大阪進出するので、その会社にお世話になりました。
しかし、一向に東京から人は来ず、入社からしばらく私一人で仕事をすることになりました。今だからわかるのですが、その会社はきっと大阪での仕事が無くなったので撤退したかったのでしょうね。
でも私は辞める気はなく、東京本社に「どんな仕事をしたらいいか」と電話し続けていました。
そうしているうちに、ある時、東京本社からプレスリリースが送られてきて、新聞に載せるように言われ、新聞社にアポなしで訪問することになりました。
すると、広告ではなく記事としてタダで載せろと言っている面白い子が来ている、と色々な人がいじりに来たのです。
これがきっかけでマスコミの友達がどんどん増えていきました。
このネットワークが売上につながると思った本社は、私の上司にあたる人を送り込んできたのですが、効率を求める上司とそりが合わず辞めてしまうことになりました。

個人から「株式会社」へ

その後ぬけ殻になっていると、クライアントから新聞社やテレビ局に新商品を持っていって欲しいと電話があり、これを皮切りに仕事が入り始めました。
そのうちに売り上げは数千万円になり、数百万円の税金が必要になったので、税理士のアドバイスで資本金一千万円の株式会社を作ったのです。
当時28歳かな。
株式会社を設立するってすごい事だと思われていた時代なので、もちろん仕事も増えましたが、同時に周囲からビジネスライクに見られるようになって、自由が利かなくなり辛かったです。
大手からの仕事も多く時代はバブルなので、PRでも数千万円という仕事を中心にしていました。
そんな時、考え方が180度変わる大きな出来事が起きたのです。

PRの仕事が180度変化した

1995年、阪神淡路大震災。
被害の酷かった兵庫県西宮市に住んでいた私は、直撃を受けました。
とにかく水がなくて、水1滴に1万円払ってでも欲しいくらい窮地に追い込まれました。少し落ち着いて復興活動が始まっても、私の仕事は何も役に立ちませんでした。
それどころか被災前は水の大切さも知らず、PRのために無料で配ったりしていたのです。
今まで何をやっていたのだろうと、PRの仕事を毛嫌いするほどになっていました。
生き残ってしまったし、世の中の為になる仕事に就きたい、何でも良いから世の中の仕組みの中で役に立つものをしたい!そんな時に日本漢字能力検定協会さんから相談があったのです。
日本人は漢字を忘れているので、漢字を復興させたいと。
この「復興」という言葉が心に刺さりました。
私の力が文化の復興の役に立つならと、予算10万円で「今年の漢字」を企画しました。
その年は震災の他に地下鉄サリン事件もあって、暗い雰囲気が漂っていました。
けれど国民の選んだ一文字を清水寺に奉納する、これだけで心が洗われて来年はいい年になるという希望を持てて笑顔になれる。
清水寺さんは通常なら引き受けてくれないのですが、こういうご時世なので何か役立てばと引き受けてくれたのです。
使ったお金はマイク代、MC代、墨代で9万円だけでしたが、広告換算すると100億円近い広告と同じ効果を生み出せたのです。

殿村マジックが生まれる頭の中

花鳥風月という概念があります。
桜の情報だったり、夏の海水浴だったり、メディアが絶対に報道するタイミングが花鳥風月。
それをベースに時代性を見抜く事です。
私は街の色を見たりします。
女性が着る服の色は時代背景を自然と映し出すからです。
テレビドラマも時代背景を映すのでチェックします。
時代の流れに身を置くことによって世の中が見え、それを軸にズラしてPRを企画して行くのですが、クライアントには「殿村マジック」と言われています。
地元の人は気づかないけれど、必ずどの地域にも世界一になれるものがあるって自信を持って言えます。
みんな疑うでしょ?
時代を捉え、視点を上手くズラして考えてみて下さいね。

取材を終えて

殿村さんの最初の印象は、スゴく明るく気さくな方だったが、実際にPRに関する質問をさせて頂くと一瞬にして空気感が変わった。
PRを通じ商品やサービスが世の中に認知される事以上に、地元の人では気づかないその土地の良さに対する想い入れがビシバシ伝わってきた。
そのプロデュース力はずば抜けたモノがある。
ご自身の感性も常に高めながらも、幅広い人脈の中で時代の動きを常に捉え続けている。
そしてそのパワフルさは、阪神淡路大震災を機に芽生えた、世の中の仕組みの中で役立ちたいという志がベースにあると感じられた。
各地方がそれぞれ自分の地域に誇りを持てる世界一の事やモノが見つかれば、自然と日本全体が元気になる事に繋がるのだろう。

プロフィール

殿村 美樹(とのむら・みき)
株式会社T.M.オフィス代表取締役 PRプロデューサー
同志社大学大学院ビジネス研究科MBAプログラム「地域ブランド戦略」教員
関西大学社会学部「広報論」講師
内閣府地域活性化伝道師
(公式)日本パブリック・リレーションズ協会理事
日本広報学会会員
これまでに「今年の漢字」「ひこにゃん」「うどん県」「佐世保バーガー」などの国民的ブームを仕掛けてきた。

◆株式会社T.M.オフィス
http://www.tm-office.co.jp/

◆著作
『ブームをつくる 人がみずから動く仕組み』 http://amzn.to/2vO2eeo
『テレビが飛びつくPR 予算9万円で国民的ブームを起こす方法』 http://amzn.to/2wg4Ba4
『売れないものを売る ズラしの手法』 http://amzn.to/2wgbVT3

『日経ビジネスオンライン』で連載コラムを担当。

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