コロナを逆手に社会を変革する!移動販売のスゴい人!▶太田明男様 DAY1

「モビリティマルシェ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。本日ご紹介するのは、一般社団法人日本移動販売協会 代表理事の太田 明男氏。なにわの下町で育った生粋の大阪人。リクルートで順調に出世しながら、50歳を目前に退職し、新しいフィールドでの挑戦を決めた。コロナ禍であえぐ飲食業界に一筋の光明を生み出しているポストコロナの新ビジネス「モビマル」を生んだ太田氏の生き様を知ってほしい。

  他人に多くを求めず 他人に多くを与える

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実録!なにわの高架下育ち!

生まれは天王寺です。実家はJR阪和線の高架下の住宅で、家賃が4000円くらい。電車が通ったらTVが消えるような家で育ちました。お風呂もなくて毎日銭湯通い。子供の時はこれが恥ずかしくてね、大学生の時の彼女には最後まで実家につれてこれませんでした。かっこ悪いなと思っていました。今となってはここで育った自分を誇りに思うし、自慢すらしています(笑)。父は地元の不動産屋、いわゆる周旋屋を営んでいて、不動産仲介をしていたのですが、商売っ気のない人で。5歳上の姉は私と違って超が付くまじめな人です。それから父方の祖母と5人でここに住んでいました。この祖母はね、私が小6くらいの時に引越をして出ていったのですが、後になって彼女は祖父の後妻だったそうで、私とは血のつながりがないと知って衝撃をうけました。父が3歳の時に私の実の祖母は亡くなったそうです。よくよく考えたらこの祖母は父と5歳くらいしか年齢が違わなかったので(笑)、よく考えれば「確かに!」という感じです。でも母はその祖母に本当に良くしていたので、凄いなと思いますね。何年か前にその祖母が遊びにきて、私の成長を喜んで涙を流してくれたのはうれしかったですね。

ご実家近影

幼稚園で登園拒否!

2年保育の幼稚園に通うことになったのですが、みんなでやるお遊戯とかが面白く無さすぎて、休み時間だけ行って、クラスの時間になると近くの自宅に帰ってました。朝はトイレに隠れて抵抗したり(笑)。

ところが小学校に上がってからは皆勤だったんです。楽しかったんでしょうね。性格的にはまあ、いじめっ子気質でしたね(笑)。谷口君という仲がいい子がいて、ご飯何食べたかって話したときに、「グラタン」を食べたって彼が言うから。僕にしたらグラタンなんて家で食べるもんちゃうやろ!と思って、「嘘を言うな」と言って泣かしたことあります。俺が知らなかっただけだった(笑)。

ソフトボールとの出会い

うちの町はソフトボールが流行っていて、強いチームがありました。月の会費が150円。これくらいなら払ってもらえるだろうと母に頼み込んで通わせてもらいました。もしも会費が1500円なら母には言えなかったですね。絶対頑張るからと約束してね。小2から始めて、小6の時はエースで4番。ピッチャーの私は毎朝5時から練習でした。冬なんかまだ真っ暗です。毎朝練習に付き合ってくれるコーチは大阪ガスの社員だった方。そのコーチが来るから絶対に休めない。コーチは朝練の後会社へ出勤して、私は学校へ行く。大会前はそれに加えて夕方に素振り練習。自分がサラリーマンになったときに、このコーチが無私で私に毎朝付き合ってくれたことの凄さを思い知りましたね。感謝しかないです。おかげで大阪で地区優勝をして、大阪市長に表敬訪問もしました。

悪ガキ夜遊び生活から猛勉強の日々へ大変化

他方で小学校からの幼馴染の2人の悪友たちといつも一緒で、3人で悪いことばかりして親にも迷惑をかけていました。銭湯でけんかになって、窓ガラスを割ってしまって後で母が謝りに行ってくれたことも。夜遅くまで外で遊ぶような癖がついていましたね。うちの町は夜になると子供でも警察に職質されます(笑)。特に自転車が盗難じゃないかと疑われるんです。昔、“警察署長殿”と書いてある下駄を単純に「おもろいな」と買って履いていたら、「なんやその下駄は!」って警察に怒られたことがあります。売ってたから買っただけやけど。って(笑)

中学校では丸坊主になるのが嫌で野球部には入らず、相変らず悪友と夜遅くまでぶらぶらすることを続けていました。ちょうど知人から剣道の防具を譲ってもらったので剣道部には所属して。あまり練習は熱心ではなくて、試合だけ参加する役。だからいつも先鋒でしたね(笑)。なんとか負けないで引き分けに持ち込んで、仲間に託す役です(笑)。

ラグビーをやりたくて猛勉強!

そうしたら1学期の夏休みがあけて2学期からその幼馴染の2人が不登校となりました。私は一人学校では取り残されたような形になりましたが、新しい友達もできて環境が大きく変わりました。そこから天王寺高校に入ろうと一念発起して猛勉強するようになりました。少し前にスクールウォーズの元となった名試合「伏見工VS大阪工大」をTVで見た時に感動して、ラグビーをやりたい!と思っていました。天王寺高校ラグビー部は強豪校で、偏差値も地域で一番高い高校です。挑戦する相手として不足なし!と思いました。勉強部屋がなかったので家族が寝た後に、食卓で22時から朝の5時まで勉強しました。友達が変わったのと、目標ができた事が生活を一変させました。

それでも進路面談では天王寺高校は私の成績では合格ラインぎりぎり。「落ちてもいい。天王寺高校しか行きたいと思わない」といって受験し、なんとか合格しました。受験番号が掲示されていた風景は今でも忘れられない記憶です。これが人生を大きく変えた「分水嶺」になりましたね。

 

「近所の悪ガキ」から「有名進学校の生徒」へ

高校生になってからはたとえ警察に職質されても「天王寺高校の生徒です。」と学生証見せたらすぐに「行ってよし」となる。近所の人も「天王寺高校行ってるんやって?」と話しかけてくれる。一目置かれるわけです。ただの悪ガキという扱いはもう受けない。世の中の仕組みを理解しましたね。「なるほどな、社会は信用なんやな」と思い知りましたよ。

高校ではもちろん憧れたラグビー部へ入部。天王寺高校ラグビー部はほぼ全員が初心者です。それでも強豪校である理由は、練習量が多いからなんです。夏休みとかの合宿はきつかったですね。私は身体が小さいので足の速さで勝負する選手を目指しました。ポジションはフランカーかウィング。3年生ではレギュラーポジションをつかみ取りました。天王寺高校は正真正銘の進学校です。3年生ともなると1学期で部活は終わり、周りは大学進学まっしぐらとなります。ところがラグビー部は秋に「花園」の真剣勝負が待っている。夏休みは朝から晩までラグビー漬け。だから天王寺高校ではラグビー部のあだ名が「天かす」だったんです。3年生の夏休みに勉強もしないでボール追っかけてるから(笑)。まあ、そういうわけで私は浪人することになりました(笑)。予備校のお金は親がなんとか出してくれましたが、なんせ実家にお金がない。関西の国公立ならば行かせてくれるということだったので、目標は自然に京都大学のラグビー部「ブルーライオン」に入る!となりました。経済学部とか法学部とかじゃなくて、京都大学の「ラグビー部」が第一希望です(笑)。ただ学力は及ばなくて結果的には神戸大学へ進学しました。

ラグビーチームのキャプテンとして組織マネジメントを経験

神戸大学はラグビー団体が3つありました。ラグビー部・医学部ラグビー部・ラグビー同好会です。天王寺高校の同級生が1年早く現役で入学して、ラグビー同好会にいたので誘われてそこに入部しました。割と気楽にラグビーをやることができました。結果的にはこれが本当に良かった。1年生からレギュラーでしたし、キャプテンとしてマネジメントの勉強にもなりました。監督がいないので試合のアレンジから合宿の手配まですべて自発的に動かなければならない。キャプテンになったとき、練習をあまりしないメンバーや、そもそも練習に来ないメンバーがいて。どうしたらみんなで練習に取り組めるのかを考えました。彼らにラグビーはもっと楽しいものだと知ってもらいたいなと思って、練習自体を楽しく、やりがいのあるものにしようと、チーム目標を明確に定めることにしたんです。今だったら「ビジョン」とかそう呼ぶものですね。チームとしての最終ゴールや方向性を定めて、それに沿った練習を日々行うことにしました。練習の目的が定まってから、チームとしてまとまりが出ました。この時に組織マネジメント手法やラグビーの戦略立案、人の動かし方まで学生として経験できたことが本当に大きくて、社会に出てからこれが僕をずいぶんと助けてくれました。 

 

「すぐに独立します」と宣言して内定獲得!

92年の就職はバブル期で引く手あまた。神戸大学の工学部といえば、今なら考えられないくらい大企業の方からひっきりなしに電話がかかってくるような時代でした。大手銀行から総合商社など、ほとんどの上場大企業の方と会いました。専攻は建設だったのですが、あまり建設にはこだわっていませんでした。そんなとき高校のラグビー部の先輩がリクルート社の人事部にいらして、電話がかかってきました。「とりあえずうちでアルバイトしないか」と。きいてみると、30分アンケートに答えて、30分先輩と話すだけで5000円もらえる。5回くらい行きました。毎回違う先輩と会う。アルバイトという名前のOB面接だったんですよ。6回目は「スーツを着てこい」と言われて。そしたら支社長が出てきて「太田君は、うちの会社で何したいの?」と聞かれたんですよ、(へ?いや、僕入りたいと一度も言ってないんやけど)みたいな(笑)。でも、なんとなく「父親も商売してるし、早く辞めて独立して自分で事業をやりたいです。」と答えたら、「内定おめでとう!」と言われてびっくりしましたね(笑)。特にこれと言ってやりたいことが無かったし、今まで受けてきた銀行の面接とかはあまりピンとこなかった。リクルートで出会った先輩方は本当に魅力的だったので、この人たちと働いたら楽しそう!という直感だけでした。そのあとは先輩や支社長に飲みにつれて行ってもらったりして、入社前に随分かわいがっていただきました。配属はその山田支社長がいる神戸支社。支社長と新人の関係で友達というか孫というか、いつも一緒に遊んでいました。社員のインセンティブ旅行でハワイに行った時も、支社長と同室の2人部屋でした。みんな支社長と同室って委縮するでしょ。だから新人と支社長(笑)。昨年お亡くなりになられたのですが今でも山田さんのお写真は机の上に置いています。人生の恩人です。

(DAY2に続く)

 

太田 明男氏 プロフィール

大阪府出身。府立天王寺高校卒業。神戸大学工学部卒業。

1992年 リクルート入社

2016年 独立。イカ焼き全国チェーンビジネスを展開

2019年 一般社団法人 日本移動販売協会 設立。

移動販売のマッチングサービス「モビマル」を全国展開中。

事業関連のお問い合わせはこちらから https://mobimaru.com/

 

 

 

 

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