ウクライナの獣医師から、日本で英語教師になったスゴい人!▶マリア・ノヴィツカ DAY1

2022年2月。ロシアによるウクライナ侵攻で世界は様変わりした。戦争の影響で物価は高騰し、多くの生命が脅かされ、また失われた。日本にも現在2,500人超のウクライナ避難民が在留しており、そのうち6割が女性である。今日のスゴい人はそのうちの一人。首都キーウである日突然、ロシアからの爆撃で幸せだった日常を奪われた。たくさんの恐怖と悲しみと複雑な感情を抱えながら日本で過ごしているマリア・ノヴィツカ氏に話を伺いました。

  Life will win over death, and light will win over darkness

「生」は「死」を克服し 「光」は「闇」を消し去る

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戦争を機に、憧れだった日本へ避難

編集部(以下、編):本日はお忙しいところありがとうございます。

マリア氏(以下、マリア):こちらこそありがとうございます。ウクライナから避難してきた私には皆様にお話しする機会があることはとても大きな意義があります。 心から感謝いたします。

編:ウクライナの首都で生まれ育ち、来日したそうですね。

マリア:はい。 今はちょうど25歳です。ウクライナでは25歳の女性は若いとは言われないのですが、日本の長寿社会においては私はまだまだ若いのだとたくさんの人に言われて驚きました。この間生まれたばかりだねと言われたときは面白いなと思いました。

編:ウクライナの平均寿命はおよそ70歳ですから、その点では日本とは違うかもしれませんね。

マリア:私が育ったキーウの街は長い歴史の中で培われた文化的な史跡と多くの自然に恵まれた美しい街です。父は外洋航路の機関士長をしており、母は国立学校の教師をしています。また私の自慢の姉は彼女の夢を叶えて、戦争前から日本で働いています。

編:お姉さんがいらしたので日本へ避難されてきたのですか?

マリア:それも大きな要因の一つでした。姉と私は子供のころから日本のアニメコンテンツが大好きで、宮崎駿監督のジブリ作品などに影響されていつか日本を訪れたいと憧れていました。姉は芯の強い人で、ウクライナで日本語を学び、ついに日本で就職したときにはとても興奮しました。

大好きな姉と

編:マリアさんも日本語を勉強していたんですか?

マリア:本格的に日本語の勉強を始めたのは、来日してからです。私は子供のころから動物が好きだったので、ウクライナの国立大学を卒業したのち、獣医学者となりました。獣医として動物病院へ就職し、正式な病院医師として順調にキャリアを築いてきました。その中で大好きな姉と憧れの日本で会うというのはすでに夢ではなく、実現可能な目標となっていました。ですから月々の給料のいくばくかを毎月来日費用とするために少しずつ貯金をしていたのです。

編:戦争で思いがけずその機会が早く訪れましたか?

マリア:戦争が起きて、多くの女性や子供たちが世界中からの避難支援プログラムを受けられるとなった時に、日本行きを選ぶウクライナ人はそれほど多くなかったのですが、私の場合は、憧れの日本に行けること、大好きな姉に合えること。この点から迷いなく日本を避難先として選びました。

編:ウクライナからの避難民は多くがヨーロッパ各国へ行かれたと聞きました。

マリア:そうですね。なるべく近い国へ避難というのが多いと思います。

突然始まった、戦争の日々

編:2022年2月にロシアのウクライナ侵攻が始まったとき、マリアさんはどんな生活をされていたんですか?

マリア;日本の多くのみなさんと同じように、戦争のことなど何も考えることなく生活していました。好きな仕事につき多くの友人に囲まれていました。自分の夢を実現し、充実した生活を送っていました。

2022年の2月23日までは。

その日私は病院で遅くまで勤務していました。夜になってイスラエルの友人が戦争が始まりそうだとニュースで聞いたが大丈夫かとメッセージをくれました。その時の私は、そんな事ありえないし、また変な噂が流れてるなと感じたほどでした。ですから友人には、キーウでは全く何も起きていないし心配無用と返信しました。数か月先に、イスラエルに遊びに行く約束をしたくらいです。

獣医師として働いていた日々

編:何の前触れもなく、本当に突然始まったんですね。

マリア:その通りです。翌日の24日の早朝に爆弾が首都キーウを直撃しました。寝ていた私は、今まで聞いたこともない、金属が耳をつんざくような夢を見て目が覚めました。早朝6時頃でしたが、爆撃機が自宅の上を飛んでいるのが見え、すぐにこれは夢ではなく現実だと気が付きました。私はパニックになりながら窓を閉め、両親を起こしに行きました。

父はすでにリビングでニュースを見ており、慌てている私に「ロシアからの攻撃が始まった」と冷静に言いました。残念なことに私は冷静ではいられませんでした。自分の人生に「戦争・攻撃・爆弾」という現実が起きるなんて全く予想していませんでしたから。インターネットで調べてみると、プーチンがウクライナで特別作戦を開始したとありました。友人も同僚も皆起きていて「どうしたらいいのか」と恐怖と不安の中で途方にくれました。

編:戦争が起きたらこうする。なんて考えていませんものね。

マリア:目が覚めたら死ぬかもしれない恐怖のど真ん中にいるなんて、今夜眠りにつくとき誰も絶対に思わないですよね。あの時はみんながパニックでした。自分や家族、友人たちの命をどう守ればよいのか。また、同僚たちとは病院にいるペットたちをどう守ればよいのか。何が起きていていつまで続くのか。安全な場所はどこか。とたくさん話しましたが誰も答えは持っていませんでした。すべてのテレビ番組は市民に必要な情報を伝えるために、番組を切り替えて戦争について放送していました。社会の空気は一変した重苦しいものとなり、私たちが描いていた未来や将来などは一瞬で消え去りました。数秒後に爆弾が着弾して自分が死ぬかもしれない恐怖が蔓延していました。

パニック状態で下された、それぞれの決断

編:そんな時に日本のメディアから取材の申し出がありました。

マリア:戦争が起きたウクライナの状況を日本に伝えたいという事でした。私自身が何をすべきかわからないパニック状態でしたが、何もしないではいられないという気持ちもありましたので、せめて現状を知ってほしいと思い取材を受けることにしたんです。その取材の最後に、「この機会を使って今、世界の人々に伝えたいことはありますか」と素晴らしい提案をいただいたのに、その時の私は混乱していて、考えをうまく言葉にすることができませんでした。

編:冷静ではいられなかったでしょうし、無理もありませんよね。

マリア:戦争の状況や今後の情勢が全く予見できなったので、「ウクライナを助けてください。戦争を止めてください」という言葉が果たして今、私が言うことが適切なのかどうかさえその時はわかりませんでした。ロシアに対する言動には非常に慎重になるべき時期でもあり、軽率なことは言えないなと考えてもいました。それでもこの取材の後はロシアの人がどこかでこの放送を見るかもしれないと、不安でした。来日してからはその不安は少し落ち着きましたけれど。

編:日本でも当時は大きく報道されましたし、何より首都に直接攻撃があったというのは衝撃的でした。

マリア:パニックになったキーウ市民の多くは、激しい攻撃を受けている首都の自宅を出て、郊外のブチャやイルピンのような小さな町に子供を連れて疎開しました。キーウよりも安全だろうと考えたのです。その後のことは皆さまもご存じの通りです。まるでロシアの罠にはまるかのように、それらの町が攻撃の対象となり、キーウ市民はその不慣れな小さな町の地下室で爆撃や、通りを走る戦車の音に怯えながら数週間も狭い地下室で子供達と過ごすことになったのです。

編:マリアさんのご家族はキーウにとどまられたのですか?

マリア:私の母は教師だったので、学校の生徒の安全を一番気にしていました。生徒たちを置いて避難することなど全く頭にありませんでした。そして戦争初日のその日の朝、私の父は国防軍へ志願し、荷物をまとめて訓練のために家を出ました。もう二度と父には会えないと絶望したのを覚えています。しばらくしてからロシアと闘うと決めた志願兵はとても沢山集まったので、実際にはうちの父は予備役兵と決まりました。

編:マリアさんも壮絶な体験を経て、日本にいらしていますね。

マリア:初めてキーウの高層住宅に爆弾が落ちたのをはっきり覚えています。またロシアがキーウのTV局を攻撃したとき、近くにいた子ども連れの家族が生きたまま焼け死んだことも覚えています。彼らは偶然に、たまたまそこにいたという理由で死にました。その周りの家も通りも壊れてさえいませんでした。当時は私の自宅近くにシェルタ―は無く、攻撃の間は自宅の近くにある大きな森に逃げ込みました。子どものころから遊んでいた森です。同じように避難してきた多くの知人友人にそこで会いました。森に逃げる時間がない時には外からは壁が何重にもなっている、自宅の中央の廊下に身を潜めました。枕や毛布を積み上げて、着弾したとしても少しでも衝撃を和らげることができるようにと考えていました。その頃はまだウクライナも戦争への準備が十分ではなく、敵の攻撃を知らせるサイレンも鳴らず、携帯電話から空襲警報が届くこともありませんでしたので、サイレンが鳴ると同時に空襲が起きることも多かったです。市民はみな隠れる暇もなく恐怖に包まれました。

逃げ惑う人々

編:平和から戦争へ。一夜で生活が一変したんですね。

マリア:ロシア軍により倉庫や橋が攻撃され、物流が遮断されたために食料を買うために何時間も並び、それでも1家族あたり1キロのパンと肉しか手に入りませんでした。非常時用の缶詰めも全て売り切れていました。門限による外出制限ができ、電灯の光が漏れないように布をかぶせるように推奨されました。私の職場はキーウの近くの町にあり、通勤は危険だったのでオンライン勤務となりました。一日中、ニュースで戦争の状況を集めたり、家族や友達の状況を確認することが日課となりました。そして何か少しでも手立てはないものかとインターネット上を探しまわっていました。友人たちも似たような状況だったと思います。

(DAY2へ続く)

 

マリア・ノヴィツカさん プロフィール

1997年 ウクライナ生まれ、キーウ出身

ウクライナ国立生命環境科学大学 獣医学部

大学院 修士課程修了 専門は獣医学

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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