“武人画家”として活躍するスゴい人!

子どもの頃は絵が下手だった

人生を変えたカップヌードルのCM

LIVE ART甲子園で絵描きの世界を変える!

本日登場するスゴい人は、戦国時代/三国志などの歴戦の武人を、墨を使って描く『武人画師』。
活動開始から5年も経たぬうちに多方面からオファーが舞い込み、江島神社への水墨画奉納、国宝二条城「二の丸御殿前」史上初のライブARTパフォーマンス、NHK大河ドラマ「真田丸」カレンダー&ポストカードデザイン、スター・ウォーズやマーベルのオフィシャル武人画など、数々の作品をのこしている。
彼はなぜ、武人画家の道を歩み始めたのだろうか?

さあ…
武人画家
こうじょう雅之様の登場です!

子どもの頃は絵が下手だった

幼少期は典型的なわんぱく小僧でした。
兄の背中を追いかけて、小学校1年生から高校3年生まで野球一筋でした。
野球を通じて自分の生き方が形成されたと思います。
技術向上以上に、自分に何ができるのか、自分の役割は何なのかを考えていました。
野球を通じて得た経験は、僕の財産です。
プロ野球選手になりたいという夢はありましたが、自分の力量がわかってからはイラストレーターや漫画家になりたいと思っていました。
もともと絵がすごく下手で、絵の上手な同級生がちやほやされているのがうらやましくて。
男の子4人で漫画をリレー形式で描いていて、休み時間のたびに続きを楽しみにしている同級生たちが見に集まりました。
わんぱくが行き過ぎて、6年生になっていじめられたのですが、その時も家にこもって漫画を描き続けていました。

似顔絵で注目されるけれど、申し訳ない気持ちに

中学進学後も漫画ばかり描いていたので学力もなく、「このままでは高校に行けない」と言われ、野球で高校に進学。
寮に入り、3年間野球一筋で、絵を描く余裕はありませんでした。
最後の大会で甲子園に出場することになりました。
僕は裏方で、ほとんどスタンドで応援していたのですが、ある時スタンドレポーターの方に似顔絵を描いた団扇を差し上げたら、滋賀県の琵琶湖放送で取り上げてくれました。
絵を描く選手として急に紹介されて、甲子園まで行ってスタンドで監督の似顔絵を描かされたんです。
両親も姉も最後の大会を観に来てくれていたのに、僕はそこで絵を描いていて、野球をさせてくれた両親に申し訳ないような気持ちにもなりました。

野球の経験を活かした組織作り

両親が美容室・理容室を営んでいたこともあり、高校卒業後は美容の道へ進み、ここで初めて絵を習いました。
成績は下の方でしたし、なかなか上手くなりませんでしたが、デッサンの授業だけは楽しくて熱心に受けていました。
美容師になってすぐ、20歳で結婚。
当時の収入では食べて行けないので、体を活かせて稼げる仕事を探し、運送業のアルバイトを始めました。
24歳で離婚後も働き続け、26歳で所長になり、40代や50代の部下を持つようになりました。
最初は苦労しましたが、野球と同じ感覚でチーム作りをしました。
どんなにいいピッチャーがいても、それを受けるキャッチャーがいないと力を発揮できません。
だから、良いところを伸ばして、足りない部分はほかの人に補ってもらって、パズルのような関係を組織の中で作っていきました。
この組織作りが成功し、31歳で会社の役員になりました。

人生を変えたカップヌードルのCM

部下に恵まれて生活も安定し、順風満帆だった33歳の頃、安定して良い収入を得ることが目標ではなかった僕は、疑問を感じ始めていました。
ぼーっとテレビを眺めていた時、カップヌードルのCMで大好きな井上雄彦先生が墨で宮本武蔵を描いているのを見て、衝撃を受けたんです。
「僕はもうこれをするんや!」と思って、翌週には辞表を出していました。
僕は不器用で二足の草鞋を履けないタイプだし、何も捨てる覚悟がないまま井上先生と同じことはできないと思っての決断でした。
ちょうど当時彼女だった妻の妊娠がわかり、結婚の報告に行こうという日でしたが、彼女も理解し、応援してくれました。
僕の両親はブチ切れていましたが、彼女の両親に「僕は絵描きの道を目指したい」と言うと、義父から「やれ。経済面は考えんで良い。飯ぐらい食わしてやる。その代わりどんな経済状況になっても、うまく行かなくても5年は続けると約束しろ」と言われました。
今年が5年目です。
何が何でも絶対に飯食えるようになって恩返しをすると決め、甘えさせてもらいました。
両親がサポートしてくれて、背中を押してくれたからできました。
困ったことがあるといまだに義父に相談します。

恩人・坂井兄弟との出会い

始めた当初は、上手いとは言われるけれど、アマチュアの絵でした。
上手いと言われている間はいつまで経ってもアマチュアです。
すごいと言われて初めてお金をもらえるので、そこにはこだわってきました。
自分にスイッチが入ったのは、版元の坂井代表との出会いが大きかったです。
彼は江戸伝承手刷木版画の版元なので、きちんとした目を持った彼にジャッジしてもらえるようになったことで、作品としての質の向上につながりました。
また、ほぼ同時にスター・ウォーズの仕事をさせてもらえるようになり、いきなり世界的に有名な作品とのコラボレーションが決まって環境ががらりと変わりました。
コラボレーションは喜びが大きい反面、プレッシャーも大きくなります。
ファンがたくさんいらっしゃるので、僕の絵が批評されるのは受け止めますが、ファンの方から原作者の方が「こんなのを許したの?」と思われるのは申し訳ないので、ファンの目線は大事にしてきました。
また、シェフとして活躍する、坂井代表の弟さんからも大きな影響を受けました。
最初は墨絵ではなく生活のために似顔絵を描いていたのですが、弟さんは僕の描いた似顔絵を見て「面白くない。やめたほうがいいんじゃないの」と言いました。
でもその時に「君がやりたいことはこれじゃないんじゃないの?」とも言われたんです。
「実はもともと墨絵の方がやりたい」と話すと「今度それを見せて」と言われましたが、その時はもう二度と会うことは無いと思っていました。
それから半年後、たまたま弟さんが京都に店を出して再会し、墨絵を見てもらったら「面白くなったね」と。
その時出してもらった料理が、アンダープレートにまでソースで装飾されていて、すごく感動したのです。
もともと歴史上の人物を描くのが好きで、枠にはまらない人物を表現するにはどうしたら良いのかと考えていた時期だったので、そこからヒントを得て、マットも全部使って枠に収まっていないものを演出しようという今のスタイルができました。

LIVE ART甲子園で絵描きの世界を変える!

今は、高校生のLIVE ART甲子園の開催を目指しています。
僕が会社の役員から絵描きになると言った時、笑われました。
見といてくださいと言いましたが、まだそういう世の中なのか、と思う反面、人と違う夢を持ったとも思いました。
絵描きになりたいと言ったときに、応援される職業にする方法を考えようと思い、その為の布教活動としてLIVE ARTをしています。
僕は、原点回帰を大切にしています。
何で絵を描いているのかを忘れず、今後も絵描きの世界を変えるべく、LIVE ART甲子園を必ず実現させます。

取材を終えて・・・

マジンガーZやデビルマン等数々の有名作品とのコラボレーションで一躍有名になったこうじょうさん。
絵描きの道に進んでまだ5年目というのには驚きました。
野球漬けの学生時代から美容師、運送業のアルバイトから役員にまで登りつめ、絵描きに。
一見すると関連性の無いようにも思える数々の経験も、すべて活きているのだと、お話を伺っていて感じました。
LIVE ART甲子園を通じて、「絵描きになりたい」という夢を持ち、多くの人に応援されて実現する世界、必ず実現してください!
わくわくして待っています。

プロフィール

こうじょう 雅之(こうじょう・まさゆき)
武人画家

日清カップヌードルのCM、井上雄彦先生によるバガボンド/宮本武蔵のライブアートを観た事を
きっかけにアーティストとしての道を歩み始めた。
2014年より本格的に水墨画で描く武人画アーティストとして活動を開始。
とあるイタリアンシェフの料理からインスパイアされ
通常保護のために使用されるマットまでキャンパスにするという今までにない
『枠を枠としない』独特の画法を確立し、この大胆な構図を用いた作品が話題を集める。

『絵描きの未来を変えたい』という大きな目標を掲げ
高校生による「LIVE ART甲子園」の開催を目標とし、世界で活躍する
未来の日本人ライブアーティストを輩出し、その架け橋となりたい。という目標に使命を燃やす。

◆公式ホームページ『macfamily57』
https://www.macfamily57.com
◆『Live Art 動画』
https://www.macfamily57.com/live-art?wix-vod-video-id=66db0ccd21774af28af907912e98bfac&wix-vod-comp-id=comp-ixwpzjda#
◆直販サイト『runatown』 http://www.runatown.com

🄫2017 MARVEL

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