5歳の頃、“豆画伯”としてアメリカの「Life誌」に掲載される。※裸婦を描く少年(島田晴雄様)
右側に立ってる男性(師匠:岡田謙三画伯)しかし、50年の間筆を置くこととなる。
その間の彼の肩書きは、慶應義塾大学 名誉教授、小泉内閣 特命顧問、千葉商科大学 学長、日本フィルハーモニー交響楽団 理事長、移住・交流推進機構 会長、島田塾 塾長・・・
その他、数限りない職歴を持ち世の中に貢献してきた中で再度、絵筆を持つ縁を引き寄せる。
初めて銀座のシャネル本店で開かれた個展が彼の初の個展だった。
さあ画家であり千葉商科大学学長でもある 島田晴雄様の登場です!
「しでかす人生の連続」
体が弱かった事を親が心配し、自信が持てるようにと5歳の頃、絵を習わせてくれました。
師匠は岡田謙三画伯。後にアメリカに渡ってしまったのでそれからは独学でしたが、9歳の時、アルタミラの洞窟壁画のまだバッファローの絵になってない1本の線を見て、
「絵は何よりも純粋なアートだ! この絵にこそ感謝の想いがこもってる。生きていることがアートじゃないか!」
と衝撃が走りました。しかし、中学の時
絵の先生が私の絵に高い点数を付ける姿を見て人生に点数がつけられないように、絵に点数をつけることは絵に対する冒涜だと感じ、
「この人がいる世界では、もう絵を書かない!」
と決め、13歳で絵筆を折ったのです。高校ではボート部のコックスにスカウトされオリンピックを目指しましたが、身体を壊し代わりに友人が出場しました。
大学ではアルバイトをしてテープレコーダを買って、近所の宣教師に生の英語を吹き込んでもらい何百回と聞き、東京オリンピックでは2,000人の学生通訳のトップ10人に選ばれる実力をつけ、団長付き通訳として世界のアスリート達のお世話をしました。それから経済学者への道へ進み。大学教授に。
絵とは50年関係のない生活を送っていたのですが、小泉政権の特命顧問をしていた時代にシャネルの社長リシャール・コラスと知り合い、
「50年以上も絵を書かないなんて何やってるんだ!今度、銀座に本店を建てるから最初の個展は島田だ!」
と言ってもらい、50年ぶりに筆を取りました。感覚を必死で取り戻し、
個展は来場者4,000人注文制作も沢山頂く程の大成功。私は小柄で病弱でしたが、集中力は高く、常に「絶対に成し遂げる」という気持ちを持って物事を成し遂げてきました。
日本の方には世界中が羨む日本で生まれた事を自覚して欲しいものです。
日々、何となくやり過ごすのではなく、
「今日は何をしでかそうか」
と常に考え、世の中を驚かせて下さい。