食費を削って写真を撮ることに明け暮れた日々
フライデーの黄金時代
「零戦」に乗ってあの時代を戦い抜いた人々
「零戦」
日中戦争から太平洋戦争までの間、日本海軍の主力戦闘機として戦い抜いた戦闘機の呼称である。
その「零戦」の操縦士たちの過去と現在を追い続け、彼らが生きた証を次代に引き継ぐために持てる力を注ぎ続ける人物がいる。
写真週刊誌フライデーが200万部近くを売り上げていた黄金時代に専属の報道カメラマンとして同誌を支え、「世の中の人々の目」として事件の最前線に立ち続けた彼が辿りついた先は、「一度命を捨てた」人たちの持つ凄みだった。
彼がいかにしてカメラマンという職に出会い、フライデーを支え、そして離れて行ったのか。
彼を動かすものは何か。
出会いと繋がりによって綴られる、彼の人生を見ていこう。
さあ…
写真家/ノンフィクション作家
特定非営利活動法人零戦の会 会長
神立 尚紀様の登場です!
食費を削って写真を撮ることに明け暮れた日々
中学生の頃から天文少年で、星空の写真を撮ったり友人と天文同好会を作ったりしていました。
高校生になってからは写真部に所属して、授業そっちのけで写真ばかり撮っていたら、入学時には上位の成績だったのにあっという間に急降下して。
担任の先生から自宅に電話がかかってきて、母に泣かれましたが、あまりこたえていませんでした。
写真は好きで、あわよくばプロになりたいと思っていたんですが、あるときたまたま図書室から廃棄される本の山の中から一冊の雑誌を拾ったら、そこに「写真家の一ノ瀬泰造がカンボジアで失踪して4年」という特集が組まれていたんです。
それが本当に衝撃的で。
好き好んで外国に行って命がけで写真を撮る日本人がいるのか、と興味を持って一ノ瀬泰造の本を読み漁り、「これは男が一生をかけてするに値する仕事かもしれない」と思ったんです。
そこで一ノ瀬泰造の略歴を見たら「日本大学芸術学部写真学科卒業」とあったので、両親を説得して大阪から東京に出てきました。
そして、実習費を稼ぐために東京に出てきた次の日に喫茶店のアルバイトを決めました。
とにかく男が志を立てて故郷を出てきたからには一番にならなければ、という気持ちが強くて、誰よりも枚数を多く撮ったし、課題の講評で自分より上の点数の人がいたらその点数を超えるまで撮り直し続けました。
ただ本当にお金がなくて、ある時なんてコカコーラの瓶を集めて酒屋に持って行って、貰ったお金でソース焼きそばを買ったのだけど、お湯を切るときに全部流してしまって。
大学で泣いたのは、その時だけです。
フライデーのカメラマンへ
大学のゼミの先生は、三木淳先生という世界的な報道写真家でした。
ゼミ合宿で軽井沢に行った際に、作家の森村桂さんがティールームを開くというので手伝って片づけをしたところ、手つきがいいと褒められてひと夏そこで働くことになりました。
ティールームには著名な出版社の方や、有名人が入れ替わり立ち替わりやってきました。
8月下旬に大学の先輩でもあるフライデーのカメラデスクの方が来たのですが、ちょうどその時、歌舞伎役者の中村吉右衛門さんがお忍びで家族と来られていました。
そこで先輩が記事になるから写真を撮らせてもらえと言うので、恐る恐る吉右衛門さんに「講談社の編集者が写真を撮って記事にさせてもらえないかと言っています」と言いました。
森村さんが「もしお困りでしたら断ってくれてよろしいんですのよ」と言われたのですが、「いえ、手前どもも『商売』でございますから」と快く撮らせてくれました。
あの言葉を私は一生忘れません。
8月の末にフライデーに出たその写真が、私の最初の仕事です。
その後、東京に帰ってそのままフライデーの仕事をすることになったのです。
4年生の9月からほとんど講談社で仕事をしていて、卒業と同時にカメラマンになりました。
フライデーの黄金時代
新卒で普通の会社に就職した人と比べればかなりの額のギャラはもらっていましたが、仕事は年中無休、24時間営業で大変でした。
その頃、フライデーは毎号200万部近く売れていました。
どこに行ってもフライデーが置いてある。
自分の仕事を見ている人が常に視界の中にいるんです。
誇りと言うよりは、自分が世の中の目であるという、世の中の人の目の代わりに見てそれを正確に撮ってくるという、それだけでした。
けれど、阪神淡路大震災の取材で家に帰れなくなり、その後のオウム事件の取材でまた家に帰れなくて、その年に過労で体を壊してしまったのです。
24時間の現場仕事はきついから何か企画を自分で、と思っていた時が戦後50年で、零戦の唯一のオリジナルエンジンの機体が日本で里帰り飛行するので取材に行きました。
それを海軍の帽子をかぶって感慨深げに見ている人がいたので、乗っていたのかと聞いてみたら「懐かしくてね」と言う人もいたり、「いやいや勘弁してください。死にぞこないですから」と言う人もいたり。
その時、気づきました。
そういえば戦争の本はみんな1945年の8月15日で終わってしまう。
あれから50年、生き残った人たちが、孫がいるその年までどうやって生きてきたのか、ということに興味を持ちました。
戦争体験者の戦中と戦後ということで、今の姿と戦中の姿を重ね合わせることで激動の昭和史というのが見えてこないかなと思ったんです。
そこで、とにかくこつこつ零戦に乗っていた人を探しては手紙を書いて、2年くらい経った頃に材料が揃って、いよいよこれをまとめたいなと思ったのでフライデーのカメラマンを辞めました。
1997年、34歳の年ですね。
今まで政治家やスポーツ選手、外国の俳優など様々な著名人を取材して、それぞれに凄い人だと思ったけれど、一度命を捨てた人には敵わない。
私にとって彼らは凄く魅力的だったのです。
「零戦」に乗ってあの時代を戦い抜いた人々
スコラの編集者から突然、電話があって、零戦の本を出したいという。光人社という出版社に相談したら、私を紹介されたそうです。すぐに出版が決まりました。『零戦の20世紀』という本です。
今までにないスタイルの本だったのでこれが割と好評で第二弾を出すことになったのですが、話を進めている最中に編集部から連絡が来なくなってFAXが送られてきました。
「弊社は今月末で解散します」と。
そこで出来上がっていた続編の原稿を持って右往左往していたら光人社が拾ってくれて、1999年に『零戦最後の証言』を出版しました。
スコラが廃刊になって最初の『零戦の20世紀』も断裁処分になってしまったので、それを下敷きにして『零戦最後の証言II』も出版しました。
また、同じ高校の先輩で零戦の名指揮官と謳われた宮野善治郎という戦死した人について『零戦隊長 - 二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』を出版しました。
宮野善治郎という人は部下思いの人だったから、自分のことだけ書かれても嬉しくないだろうなと思って、部下全員の消息を調べて巻末資料に付けました。
終戦後に生き残ったのは12%だけ。
本を出版したことで、ご遺族の方から、初めて戦死した伯父の記録をこういう形で知れたと言われたりしました。
名前一つでも、ある人がこの世に生きた証を残せたということに意味があると思っています。
無名戦士っていないんですよ。
よく無名戦士と言うけれど、みんなひとりひとりに親がいて、兄弟がいて、もしかしたら恋人もいたかもしれない。
そういう人たちが、次代の流れの中で戦うことしか選択肢がなくて、多くが20歳そこそこで死んでいきました。
ただ戦争中の話を聴いて、零戦の話がどうというよりも、人の生き方を伝えていきたいのです。
同じような時代が来ないようにしないといけない。
そのために、零戦を駆って若い命を国に捧げた搭乗員の記録を次の世代に繋いでいきたいのです。
取材を終えて・・・
戦後70年を超え、戦争体験者がどんどん少なくなっている。
生きたくても生きられなかった人がいた時代を、私たちは決して忘れてはならない。
神立さんが取材されている戦争体験者の話は、多くの人に読んでもらいたい。
体験者の生き方が、現代の日本に閉塞感を感じて生きている人にとって、勇気になるだろう。
そして、戦争はどんな事があってもしてはならないと、強く思った。
プロフィール
神立尚紀(こうだち・なおき)
写真家/ノンフィクション作家
NPO法人「零戦の会」会長
1986年より講談社「フライデー」専属カメラマンを務め、主に事件・政治・経済・スポーツ等の取材報道に従事した。
1995年、元零戦搭乗員の取材を開始。
1997年、フリーとなり、その後は主に人物ドキュメンタリーや戦史取材に力を注ぐ一方、カメラ・写真雑誌でも記事や写真を発表している。
◆ブログ:http://ameblo.jp/zero21nk/
◆NPO法人零戦の会公式サイト http://www.npo-zerosen.jp/
著書:
◆『祖父たちの零戦』 http://amzn.to/2sJDMpB
◆『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』 http://amzn.to/2t11JYC
◆『特攻の真意』(文春文庫) http://amzn.to/2s2ZSFz