中学生で週刊ジャンプに初入選。高校卒業と同時に漫画一筋の人生を走ってきた人気漫画家の平松伸二先生にインタビュー。数々の人気漫画を生み出し、自伝的漫画『そしてボクは外道マンになる』でも描かれた漫画家人生について伺いました。
外道は生かしちゃおかねぇ!
ただ描きたかった。壁にまで絵を描いていた少年時代
──幼少期、平松少年はどんなお子さんでしたか?
『鉄腕アトム』や『鉄人28号』を家の壁に描いては、祖父に追い回されていました。田舎で、だいたいどの家にも蔵があったんですけど、怒られて蔵の中に入れらるんです。怖かったですよ。本当に真っ暗で、大きな蛇がいるぞって言われてて。むっちゃ怖くて泣き叫びましたね。本当にいたりするんです(笑)あ、この話やめましょう!蛇の映像が浮かんできちゃう。この世で一番苦手なんですよ。
──厳しく叱られても漫画を描き続けられたと。
描いていましたね。壁は怒られるから地面に描いたり。当時は紙が貴重品とまでは言わないけれど、家に当たり前にあるものでもなくて。チラシも裏まで印刷されていたものが多かったし。何より田舎なので、新聞自体、バス停の近くの商店まで買いに行くものでした。
──壁や地面に模写をしているところから、どうやって「漫画を描くこと」に向かっていくんでしょうか。
よく遊びに行っていた親戚の家で、たまたま石ノ森章太郎の『マンガ家入門』を見つけて。それを買って読んだんだけど、漫画を描く上で知らなかった知識がどんどん入っていくわけですよ。
それまでなんにも知らなかったから。インクは何を使うのか、青か黒かも知らなかった。紙も「ケント紙」って書いてあるけれど、それ何だろう。画用紙じゃいけないのかな。知らないことだらけが多少わかって。「Gペン」と書いてあったんですけど、カブラペンしかなかったから、それで描いていました。
──中学生で週刊ジャンプの月例新人賞で佳作に入選されましたが、幼少期の「地面」からの進化がすごく早いですね。
はしょりすぎましたね(笑)。幼稚園くらいから絵を描くのが好きで、おぼろげに漫画家になりたいと思っていました。中学2年の時、授業中に落書きしていたら、頭に浮かんだシーンが描けたんです。それまではモノマネで漫画に描いてある動作の絵を真似ていたんですが、その時は頭の中で想像した絵が描けた。あの時の衝撃はすごかったです。俺、天才じゃないかと(笑)。これなら漫画が描けると思って。最初に完成したサッカー漫画を中学3年の時に初めて投稿したんです。それが佳作に入っちゃって。『根性のヘディング』っていう作品。発表はされてないんですけど。
──初投稿でいきなり佳作に!
いきなりです。当時はネームを考えてから絵に入る、という手順ではなくて、1枚ずつ作ったんですね(笑)。ストーリーをどう考えて作っていたのか思い出せないんですが、1枚ネームができたら、そのページの作画をするという感じで。だから、なかなか規定ページ数に収まる作品ができなかった。初めてそれができたのが『根性のヘディング』でした。
発表された号は、街の高校まで通っていた兄に頼んで買ってきてもらいました。見たら、1センチ四方の僕のカットが目に飛び込んできた。佳作に入ったって発表が載っていたんですよ。その時はむちゃくちゃ嬉しかったです。
──憧れの週刊ジャンプに自分の絵が載ったわけですね!
あれくらいのうれしさはなかったです。岩崎恭子さんじゃないけれど、産まれてきてあんなうれしいことはなかった。それまで漠然と漫画家になりたいと思っていたのが、それから、具体的に扉が開いたように、漫画家になれる?と具体的な夢になりました。
高校卒業をして上京。漫画家の道へ
──佳作だと担当編集さんがつかれるんですか?
編集さんがついたのはその後かな。高校1年の時に『勝負』って漫画を描いて、それが初めて週刊ジャンプに載ったんですよ。それまではつかなかったです。
──掲載される漫画を制作された頃は、地元ではなかなかスクリーントーンなどの画材が手に入らなかったのでは。
スクリーントーンなんてそんなとても!『マンガ家入門』で存在は知っていましたが、見たこともありませんでした。当時は、一切使っていなかったです。東京に来てからですよ。アシスタントに入った時に、初めて「これがスクリーントーンというものか」と(笑)。
過酷な漫画の世界。アシスタント、そして連載作家へ
──上京のきっかけについて伺えますか。
『勝負』を描いて掲載されると、わざわざ岡山のド田舎まで編集の方が来てくれました。そこで高校を卒業したらどうするのかと聞かれ、漫画家になりたいので東京に行きますと言って。卒業して、『アストロ球団』の中島徳博先生のところにアシスタントとして入りました。
──プロの世界に初めて触れたわけですね。
中島さんがいい人だったんで、すぐ馴染むことができましたが…仕事ぶりを目の当たりにして、やべぇ、こりゃ漫画家ってすげえぞ、と。吐きながらも仕事をされる中島さんを見て、週刊連載なんてできないなって。ちょっと自信を無くしたというか、漫画家になれるか、自分を疑いましたよね。他にも上京すると漫画家志望の人がいっぱいいるわけです。僕より絵が上手い人だってたくさんいる。競争率の高さも実感して、漫画家になるには難しいんじゃないかと思っていました。
──それでも諦めずに続けられたと。
高校時代から漫画家になるって決めて上京して、今から戻れないじゃないですか。あいつ、漫画家になるって出てったのに、諦めて帰ってきたって言われちゃうじゃん(笑)。
「原作付きの漫画を描いている限り、お前を認めない」。その言葉が突き刺さった
──その頃のエピソードは、自伝的漫画『そしてボクは外道マンになる』に詳しいですが、フィクション要素はどのくらい入ってるんですか? かなり激しい表現もありますが。
編集が僕のことをぶん殴ったとか、漫画なので誇張はしていますが、いっぱい叱られはしましたね。褒められて伸びるタイプと怒られて伸びるタイプといるでしょ? 自分では褒められて伸びるタイプだと思ってたんです。でもけなされて伸びる部分もけっこうあったみたい。反骨心が湧き上がってきた(笑)。
──武論尊先生の原作で描くことになった時、オリジナルでやりたいという思いはあったんですか。
初代担当の後藤さんの言いなりですよ。当時は自分で話を考えて週刊誌で連載する実力がなかったことは、自分でもわかっていました。とてもオリジナルではできないと。
──そこから『外道マン』でも描かれた、あの発言が飛び出してくるんですね。
「原作付きの漫画を描いている限りお前を認めない」と。あの「認めない」というのは未だに残っていますね。このやろう、まだ俺を認めないのか、って。だから今も漫画を描いています。
──最初のご自身の締め切りについてのプレッシャーのくだりがありましたね。
あの時、中島さんの手が本当にグローブのように腫れたんですよ。連載は休載されたんですが、月刊ジャンプで読切が一本あって。それをピンチヒッターで描くことになった。ここで初めて「締切に追われる」経験をしたんです。
──投稿作品とはそこが違いますよね。
はじめて、締切が1週間、10日後というふうに決められて。本当に脂汗かきました。病室で中島さんとお話してネームを作るんですが、まずそれが中々上がらない。その後はアシスタントさんを使って絵を入れていかなきゃならないけど、それも初体験で、どのくらいかかるかも分からない。本当にプレッシャーですよね。初めての。本当に怖かった。あそこでケツ割ってたら漫画家になってなかったと思います。あれは漫画家になるための最初の関門なんですね。
──そのプレッシャーの中で踏ん張れた理由は?
一番は責任感ですね。締め切りを落としちゃいけないという責任感。それは『ドーベルマン刑事』が始まってからもそうですけど。
(明日へ続く)
インタビュー:Wahsy ライター:久世薫
平松伸二氏 プロフィール:
1971年『勝負』が「週刊少年ジャンプ」月例新人賞佳作となり、同作でデビュー。
1975年『ドーベルマン刑事』の連載を開始。数度の映像化もされる人気作となる。
以降『リッキー台風』『ブラックエンジェルズ』『マーダーライセンス牙』『どす恋ジゴロ』『外道坊』など、法で裁けぬ悪党・外道を徹底的に叩き潰す「勧善懲悪」物語や、自身も観戦が趣味だという「格闘技」漫画を中心に作品を発表。
2016年『そしてボクは外道マンになる』を連載。「このマンガがすごい!オトコ編」月間ランキングに1巻、2巻が連続でランクインするなど話題になる。
現在「コミック乱」(リイド社)にて、『大江戸ブラック・エンジェルズ』を連載中。