現役の脳外科医でありながら服飾デザイナーでもあるスゴい人!

挫折の瞬間に扉が開く

留学先でのまさかの事件

それでも前に進み続ける

本日登場するスゴい人は現役の脳外科医でありながら服飾デザーナーにも活躍の場を広げている。脳外科医は肉体的にも精神的にも過酷な職業であるが医者の仕事を疎かにせず、自分の夢である服飾デザイナーでも頭角を表し始めている!
医者の仕事だけでも大変であるのに何故彼女はデザイナーを目指したのだろうか?

さあ…
Drまあやデザイン研究所
所長 Drまあや様の登場です!

3歳で親元を離れる決断

いつも喧嘩ばかりしている両親が嫌で岩手の母型の祖父母の家にいたほうが良いかな〜と思って3歳で自主的に東京の親元を離れました。
小学校3年生の頃、新幹線が開通し都内に出やすくなり春休みや夏休みには1人で原宿や
渋谷に遊びに行っていました。
 高学年の時「お前は不細工だし結婚できるような状況にないだろう。一人でも生きていけるよう手に職を付けなさい。医者になれたらベストだが頭も良い方ではないのでとにかく何か資格を取って生きていきなさい」と何度も祖母が言うのです。祖父が医者でしたが子どもは誰も医者でなかったので、もしかしたら医者を育てたかったのかもしれません。
小学生の私には、当初「なんでそんなこと言うんだよぉ〜。絶対医者にはならない」と反抗しておりました。

医者を目指すきっかけ

中学に入り新しい環境の中で自分の立ち位置を俯瞰してみると、自分は面白い人のポジションにいるのが調度良いと思うようになりました。
 子供ながらに先ずは手に職を付け、その後やりたい事をやろうって考えたのです。
その当時、ヤンキーも多い学校でしたが、ヤンキーな生き方について「長い人生を考えると、どうするんだろうか」「世間に牙をむいて悪さをしているけれど、人生の事をちゃんと考えているのか!?」って(笑
青春時代を棒にふっても、その後の人生の方が圧倒的に長いので私は脇目も振らず勉強に専念しました。成績は常に学校では1位か2位。だけど、テストで100点とっても「お前が100点取れるって事は全国の何百万人が取っているわけで、まして医学部に行くには全国の医学部を目指す人と戦うわけだからこんな事で甘んじるな」と祖母に言われました。

脳の美しさに惹かれる

岩手県は全国的に学力が低い県だと認識していたので現状に甘んじず相当頑張りました。
夏期講習と冬季講習は東京まで通い最終日だけ原宿や渋谷で買い物をするのが唯一の気分転換。医学部には現役で合格しましたが祖母からは「国家試験を通ったわけじゃないのでいい気になるな」と言われました。
 大学1年の授業で小川彰教授(当時)の脳のオペを見て、脳ってなんて綺麗なのだろう!って感動し脳外科を目指すことを決めました。
頭蓋骨を開ける事が出来るのは脳外科だけなので神の領域に唯一挑める事は素晴らしい!とも思ったのです。
 岩手医科大学を卒業し慶應義塾大学病院で外科研修医を終え脳神経外科に入局しました。
いつ死んでもおかしくないと思うぐらい精神的にも肉体的にも辛かったです。
でも、そういうものだとわかっていたので辞めようとは思いませんでした。

挫折の瞬間に扉が開く

専門医を取得し慶應の大学院で研究も行っていました。
研究が上手く進まず教授にも叱られショックで落ち込み山手線に乗り込みボーッと2周していると(日本外国語専門学校 海外芸術大学 留学科)のポスターが目に飛び込んできたのです。昔からデザインに興味があった事を思い出し、週末に話しを聞きに行きました。
セントラル・セント・マーチンズ出身というデザイナーを雑誌などで良く目にしていたので「セントマーチンに私でも留学できますか?」と質問すると行けるとの事でしたのでトライしようと決めました。この時、年齢は34歳。医者の仕事もしながらの専門学校通いはかなり大変でした。

留学先でのまさかの事件

昼間は、専門学校、夜や週末は病院当直の仕事をしながら、という生活を過ごし、翌年憧れのセントマーチンズに行くことに。
色んな人に迷惑を掛けてチャレンジさせてもらったステージ!辛かったですが必死でした。
 最初の1年は基礎を学び、翌年ファッション科を受験するも不合格。調べてみるとショートコースがあったので学びたいコースを幾つか選択し勉強していました。
その勉強を1年やり残り3,4ヶ月で帰国しようと思っていた時、留学を斡旋してくれた会社からビザの延長をしておいた方が良いとアドバイスをもらったので、一旦トルコに入国しました。1週間後ロンドンに戻ろうとすると入国拒否!
10時間ぐらい拘束されまたトルコに戻されたのです。トルコではお前はロンドンで何をしたんだ!と言われる始末。実は2012年のロンドンはネイティブの失業率が高まり留学生も含め他国の人を必要以上に国内滞在させなくなっていたのです。
従って、一度出国してしまった私も同様に戻れなくなってしまいました。

それでも前に進み続ける

トルコから日本に帰国するも絶望感でいっぱい。
しばらく仕事も手につかず家に引きこもっていました。
しかし、お金もなかったので徐々に脳外科医の仕事を復活させて働き始めました。そんな時に、ロンドンで知り合った日本人デザイナーの方にスタイリストのアシスタントをやってみないか?と声を掛けて頂き医者の仕事をしながら2年半やらせてもらいました。
純粋にモノを作る世界と違った角度でファッション界を見させてもらい良い経験となりましたね。デザイナーとしての仕事を前に進める為に、アシスタントをしながら2013年にDr.まあやデザイン研究所を立ち上げ、仕事の合間や休みの日に試行錯誤して生まれたのがグルーガンを用いた作品です。

たまたまの連続

NHKでスタイリストの仕事を深夜までして自宅に戻るとポストに不在票がありました。
その日は自宅を朝5時30分に出て羽田空港へ行き、釧路での当直。荷物を新宿郵便局で受け取って空港に向かおうと30分早めに出たのです。すると新宿郵便局でNHKのスタッフが撮影をしていたので「さっきまでファッションの仕事でNHKにいたのですよ」と声を掛け、実は脳外科でもあると話すと。ファッションの部分はカットされ地域医療をしている医者という立場で放送されたのです。その後は、テレビ東京の【家、ついて行ってイイですか?】にもたまたま声を掛けられ、今度は医者なのにデザイナーでもある立場で放送され物凄い反響を頂きました。

世に無いデザインを求め続ける

私のデザインの特徴としては色がメインになります。流行に左右されないアート的な服、着る彫刻みたいな洋服があっても良いと思っています。色んな体型の人でも楽しく着られる服も作りたいですね。更に介護機能を備えた患者さんが着る服や看護婦さんの服も手がけてゆきたいです。デザイナーの道は決して簡単な道ではないと思っていますし、また心を打ち砕かれるぐらいの困難が多々訪れると思いますが、珍しい人生を歩めてラッキーなのだと思って乗り越えてゆきます。

取材を終えて

何故、2つの職業を両立できるのか?と質問してみた。すると、逆に医者とデザイナーという両輪があることで心のバランスが保て平穏に過ごすことができていると!夢見がちな事を言っても仕方がなく長期的な戦略の元、出来る現実的な目標を設定しコツコツと無駄なくやる事が大切だと話されていた。世界進出は今はムリかもしれない。と話されていたが、まあやさんの確実な実行力と医者という武器が化学反応を起こし、世界的なデザイナーになる日もそう遠くはないかもしれない。

プロフィール

Dr.まあやデザイン研究所 HP
http://www.dr-maaya-labo.com/

ショップサイト
http://drmaayalabo.fashionstore.jp/

Dr.まあや OFFICIALブログ
http://ameblo.jp/dr-maaya/

Dr.まあや Facebook
http://www.facebook.com/dr.maaya.labo/

著書「カラフルデブを生きるーネガティブ思考を強みに変える女医の法則40」
http://amzn.asia/4aEprxn

株式会社カロスエンターテイメント
http://kallos-entertainment.com/?ac=proe&id=212

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