体質が一変してしまった!
デビューが決まっていたのに!?
振り返ったら壁が消えていた!
本日登場するスゴい人は臨済宗の僧侶でありながら芥川賞作家でもある。
臨済宗の僧侶として有名な人物とは、まず一休さんでしょう。
アニメでのトンチは有名、書物には彼の破天荒な言行も記録されている。
そんな先達のいる禅僧の一人、玄侑和尚、一体どんな方なのだろう。
いつぞやは芸人さんが芥川賞を獲得したが、芥川賞作家は小説家の中でもとびっきりの綺羅星と言えるだろう。
さて、禅僧がスター作家である、とは之如何?
これまでどのような道を歩まれ、これからは…?
さあ…
慧日山 福聚寺
住職 玄侑 宗久様の登場です!
意外とひよわだった少年時代
禅宗の僧侶は、剃髪し、モノトーンの質素な法衣を着て、冬でも裸足で過ごすことが多いため、禅僧に壮健なイメージを持っていると思いますが、私はひよわな子どもだったんです。
はしかとかおたふく風邪とか肺炎とかでしょっちゅう学校を休んだりしていました。
小学3年生の時に、なぜか理由は覚えていませんが、剣道を始めました。
後から聞きますと、母方の祖父は剣道の御前試合をしており、父方の祖父も剣道部の主将だったそうです。
急に血が騒いだのかもしれませんね。
さらに決定的な出来事がありました。
中学3年生の時に日本脳炎に罹ってしまったんです。
41度の熱が4日ほど続き、果たして回復した時には、体質がまるで変わっていました。
文学と宗教が蠢く高校時代
剣道は高校生まで続けていました。
と同時に、小説を読み始めました。
剣道部だから新渡戸稲造とかルース・ベネディクトでも読んでいたのだろうと思われるかもしれませんが、期待に反して、宮沢賢治やウィリアム・フォークナーのような宗教体験がテーマになるようなものを好んで読んでいたんです。
この寺で生まれ、「このままいくとここを継ぐことになる」という“嫌な感じ”があったんです。思えば子どもでも資格がないと入れませんし、そんなことはあり得なかった。
そして、父がそれを強要することもなかったんですが…。
でも誤解したまま「寺を継ぐ」ことへの反発が募って、高校生の時からさまざまな教団を巡り歩くようになりました。
統一教会、ものみの塔、モルモン教、天理教…。
慶應大学に入学して上京すると、まもなく代々木のモスクへも行きました。
「どんな宗教でも変わらないものがあるはず、それはなにか?」これが私にとっての大問題でした。
「それはなにか?」今は自分なりの答えも出ていますが…。
アルバイトというより「仕事」をしていた大学時代
大学生の時にアルバイトをしていましたか、なんて訊かれることもあります。
いや、そんなことしていません。
仕事はしていましたが、仕事先に私が学生であることは伝えていませんでした。
コピーライターの学校に短期間は行ってみましたが、知り合った社長がいきなり名刺を作ってくれて、初めからプロのような顔をしてフィルムにシナリオを書いたりしていました。
その気になれば、なんでもできますよね。
他にも、翻訳、ナイトクラブのフロアマネージャーやゴミ焼却場の職員もしていました。
小説家になるか?僧侶になるか?
確かに、いろいろな仕事を体験しましたが、それらはバラバラのものではありません。
大学生の頃、哲学者の星清先生のところへ足繁く通っていました。
当時の私の悩みは、「宗教者になるか、あるいは小説家になるか」。
「両方取る」という答えは、剣道的美学からして考えられなかったんですよね。
しかしどうにも選べない、という相談を星先生にしたところ「そこまで悩むなら、両方やってみたら」と言われたんです。
そこで気がついたんです。
宗教と文学を横並びにしているからダメなんだ。
縦並びにし、優先すべきはどちらか?これだけ決めよう。
で、優先すべきは宗教体験のほうでした。
大学時代のさまざまな仕事はすべて、宗教活動や小説の肥やしになっているんです。
作家としてデビューが決まるも雑誌が休刊になる!
ウィキペディアにも書かれていない、私の人生に欠かすべからざる出来事があったんですよ。
26歳の時でした。
私の作品が、ある文学賞の最終候補に残ったんです。
その小説を何度か書き直し、作品社の『作品』という純文芸雑誌に載せていただけることも決まっていたんです。
当時、作品社には芥川賞メーカーと呼ばれる名うての編集長がいました。
その頃の編集長は、見込みのありそうな新人を日々、探していたんです…。
さて、その作品社の新入社員になったのが、私の同級生。
彼が言うんです、「例の小説を見せてくれ」。そしてそのまま編集長のところへ持って行ってしまいました。
最後の部分をたしか三回、書き直したと思います。そして「では五月号に出しましょう!」と話が進み、
念願叶うか、という寸前で…掲載されるはずの雑誌『作品』が休刊になってしまった。作品社が倒産したんですね。
運命的なものを感じましたね、そういうご縁なんだと。
しかし、いま振り返ってみれば、あのままデビューしていたらいつか行き詰まって大変なことになっていたと思いますよ。
お寺を継ぐためではない修行時代
閑話休題。
宗教体験を優先する、そんな軸ができまして、私はふっきれました。
大学を卒業し、27歳で天龍僧堂に入門します。
しかしそれは、お寺を継ぐ、僧侶になるなどの職業選択のためではありませんでした。
修行は明らかに宗教体験の場ですよね。
僧堂に入ったら、修行は修行で面白い。
私の同期は二人だったのですが、二人で当時の天龍寺の老師にご挨拶に行ったところ、老師が仰ったんです。
「わしも年だし、君たちが最後まで見られる最後かな」。
その一人が佐々木容堂和尚で、いま、天龍寺の管長をされています。
自坊の仕事が面白く、まったく書かなかった三十代
僧堂は不自由極まりないところです。
むろん、小説はまったく書けませんでした。
最後まで修行したい気持ちもありましたが、やはり私にとっては、修行は己の宗教体験。
道場を3年ほどで出て、山梨や神戸にしばらく滞在した後、この福聚寺に戻ってきました。
自坊に戻って工夫を凝らしたイベントを始めました。
例えば、十牛図を踊りと鼓と笛で表現する。
あるいは宮沢賢治の童話を朗読と演奏で表現したり。
どこでもやっていないものをやりたい!そんな気持ちでしたね。
結局、三十代はまったく小説を書かなかったです。
そして再開、芥川賞受賞へ
自分でシナリオを考えて、お寺の空間を思う存分に使うイベントは、確かに楽しい。
しかし…やはりイベントは一過性のもの。
過ぎていく儚さという楽しみ方もあるでしょうが、別の形はないだろうか、と思い始めました。
そして再び、小説を書き始めたんです。
面白いことに、再開したときは意外なほどすんなり書けました。
二十代で書いていた時の苦労はなんだったんだ?と不思議なほど、スムースに筆が運ぶ。
「壁に何度でもぶつかってぶち抜け!」という根性論を日本人は好みますよね。
もちろん、そういう根性も時には必要だと思いますが、無理しないで壁に沿って横に行ってみることも大事じゃないでしょうか。
いつのまにか壁がなくなっていたりします。
そうして私は『水の舳先』でデビューして『中陰の花』で芥川賞をいただきました。
小説である理由
小説である理由?それは私にとって小説が一番「生産」と思えるからです。
わからないことに向かって突き進む、これが小説で、講演などは消費と言えるでしょう。
なぜなら、わからないまま講演をすることはできないですからね。
もちろん、なま物ですから、講演にはその場での生産も伴いますが。
僧侶としての日常が、自分の小説とどのように絡んでくるか、ここがダイナミックで面白いんです。「生産」は、苦しいですけど最後には快楽に導かれますよね。
「将来なにがしたいか?」ですって?それはわかりません。しかし、なにがしかの生産は続けていくでしょうね。
取材を終えて
「やばい…取材本来の筋から逸れまくっている…」玄侑和尚の体験と思想があまりに魅力的で、役目を忘れてしまった自分…反省。
「まだいいよ」と寛大にも延長を許して下さらなければ、どうなっていたことやら。
和尚の宗教者としての体験は、紙幅をゆうに超えてしまい、涙を飲んで割愛しています。
拝み屋さんの話とか、禅定の話とか…嗚呼!紙幅が恨めしい。
さらにさらに、ユングやらカミュやらパスカルやら、もうワクワクしてしまう偉人たちも和尚からどんどん溢れでてくる始末。こりゃダメだ。
「楽しい」という気持ちを押し殺して、無心に取材しよう。
無心に…あ!これも修行か!?
玄侑和尚に触れたいと思ったら、まずは本を読んでみましょう。
必ず、和尚の薫を感じられるはずです。
最新作『竹林精舎』、早く出ないかな〜早く読みたいな〜。
プロフィール
玄侑 宗久(げんゆう・そうきゅう)
1956年福島県三春町生まれ。慶應義塾大学中国文学科を卒業後、さまざまな職業を体験し、27歳で天龍寺僧堂に入門。2001年、「中陰の花」で芥川賞。現在は、花園大学仏教学科および新潟薬科大学応用生命科学部の客員教授。福島県立医科大学の経営審議委員、鈴木大拙館アンバサダーなど。2011年、東日本大震災の被災青少年のための「たまきはる福島基金」を設立し、理事長。2014年、被災者の視点で描いた短編集「光の山」で芸術選奨文部科学大臣賞。主な小説作品に、「アミターバ 無量光明」、「アブラクサスの祭」「リーラ 神の庭の遊戯」(以上、新潮社)、「御開帳綺譚」「四雁川流景」(以上、文藝春秋)、「祝福」(筑摩書房)など。仏教や禅に関する著作も多い。来年1月に朝日新聞出版から刊行予定の「竹林精舎」は本人によれば震災の総集編のような長編小説。乞うご期待。
◆ホームページ http://genyu-sokyu.com/