父と二人三脚で始めた民謡
上京して挑んだEXILEオーディション
諦めかけた時、帰り着いたルーツ
本日登場するのは、津軽三味線の弾き語りで現代ポップスと和を融合させたスゴい人。
5歳から民謡を始め、数々の民謡全国大会でグランプリを受賞。
しかし、変声期を迎え、民謡から離れる。
それでもうたうことが好きであることは変わらず、上京して挑んだのは「EXILE Vocal Battle Audition2006」
J-POPと民謡。
一見するとかけ離れているように思える二つを掛け合わせ独自のスタイルを築いた、その道のりに迫る!
さあ…
三味線シンガー
木島ユタカ様の登場です!
父と二人三脚で始めた「民謡」
父親が趣味でやっていた影響で、5歳のときに民謡を始めました。
その道に入るにつれ、周囲に民謡をやっている人が少ないことや、若者がやるものではないということを理解しました。
民謡全国大会に出場し、グランプリを受賞していた小学校時代でしたが、民謡に対してコンプレックスを抱いており、同級生に自分の成果を公言することもあまりありませんでした。
父は会社員で決して音楽家系というわけではなく、重圧はなかったのですが、やると言いだしたら一直線の人で、星一徹のような厳しさがありました。
小学校6年生のとき変声期に入り、民謡を休止しました。
「変声期に入ったら、声が安定するまで民謡をうたわない」という父の考えがあったからです。
男の子は、変声期で民謡をやめてしまう子が多いのですが、僕は民謡から離れぬようにと、小学校5年生の頃から津軽三味線を習わされました。
とはいえ、うたうことそのものが好きだったので、中学校に入ると、こそこそとバンド活動を始めました。
そこでやっていたのはMr.childrenやB’zのコピー。
そんな中、民謡は常にこころのどこかにありました。
現実的に考えたときに残った、「うたう」という道
高校時代はサッカーに取り組み、Jリーガーを本気で志していました。
卒業の時、Jリーグ試験を受けましたが、呆気なく落選。
進路を考えるようになり、介護の仕事や、警察官になる道も考えました。
そこで、過去を振り返ってみたとき、ずっと続けていた=「好き」という気持ちが強かったのだなと思えたのが「うたうこと」でした。
幼少期の練習は辛かったですが、ステージに立った時の喜びは、なにものにも代え難く焼きついていました。
様々な道を見据え、現実的に考えた結果残ったのが、「うたう」という、最も非現実的で夢のようにも思える道だったのです。
上京して挑んだ『EXILE Vocal Battle Audition2006』
2006年に上京。
民謡一本でやっていこうという考えは全くなかったので、Popsや自分の音楽をやっていく上で、発信源としての「東京」に進出したいとずっと思っていました。
きっかけになったのは、その年に開催された『EXILE Vocal Battle Audition2006』。
1万人の応募者から勝ち抜き、3次審査まで進出しましたが、武道館で行われる最終審査を目前に落選しました。
その後は、東京でライブ活動を行いましたが、チャンスというものはなかなか転がっておらず、いわゆる「鳴かず飛ばず」の日々でした。
取り組む音楽のジャンルは日々変化して行きました。
自分の音楽を見つめるという意味では貴重な時間だったのだと思います。
前を向いてさえいれば何か見えてくる
そういった時期に多く過ごしたのは、「自分と対話する時間」でした。
自分にとって大事なものは何か、他の人になく、自分にあるものとは何か、問い続けました。
ちょうどこの頃、一度だけ二人の兄と父と男4人で酒を飲みました。
その時、父が僕に道を示したことに責任も感じているから、「納得いくまでやらせる」と言ってくれたことが心に残っています。
家族孝行をしなければと、決意が新たになりました。
また、悲観的にならないことも自分自身を支えました。
ずっと景色が見えなくても、前を向いてさえいればきっと何かは見えてくる。
前を向いているということを前提として、振り返る日々でした。
帰り着いた「民謡」というルーツ
そうして4~5年活動しましたが、28歳の頃、音楽を続けるか、辞めるか、という選択を迫られました。
それまではいわゆる「おしゃれ」な音楽と言うか、Popsをやってきたのですが、そこに限界を感じたのです。
そこで浮上してきたのが、長年触れていなかった「民謡」というルーツでした。
当時一緒にやっていた作曲家が、もともと童謡が好きで音楽を始めた方で。
その方から受けた、自身のスタイルを持つことを重視するなら民謡が良いのではないかという助言が自分に引っかかったんです。
そこから、こぶしを混ぜたり、楽曲自体に和のテイストを加えることを試み、31歳の頃、自分のスタイルのようなものを確立できました。
そのプロセスで、振り切った試みをすることでそれまで付いてきてくださったお客さんが離れてしまったりもしました。
ですが、その分、プロの音楽家に認められる機会は増えて行きました。
一番の転機、社長との出会い
そういった新たな出会いの中で転機になったのは、現在の所属事務所の社長との出会いでした。
社長は感覚にとても忠実で、ヒットのセンサーを持っている方です。
無茶振りも多かったのですが、やる前から「できない」と言うことは嫌でした。
だからとにかく「やってみます」とやってみたところ、意外とできることが多かったんです。
社長と出会ったのが2016年の10月。
それから、今年2月のミニアルバム『和のこころ』発売まで、あれよあれよと猛スピードで進んで行きました。
社長には、早く恩返しがしたいと日々思っています。
こだわりは「こだわらないこと」
「津軽三味線の弾き語り」という自分のスタイルを確立した現在。
活動する上でのこだわりは…と問われると特になく、強いて言えば「こだわらないこと」がこだわりなのかもしれません。
曲げられないものがあまりなく、どちらかというとなんでも挑んでみたいと思っています。
「芸歴が長い」というのは事実としてあるのですが、振り返ってみればそうであっただけなんです。
音楽に関しては、実は劣等感の方が強く、その中で唯一歌がうたえた、ということだけが、自分の希望であり、夢を託せた場所でした。
ですから、「うたう」ということに関して、「こだわり」というより「負けない」という意志はあります。
それは、単純にうまい、声量がある、音圧がある、ということではなくて、もちろんそこも経てきたのですが今は、語りかけるような、風景が目に浮かぶような歌をうたいたいと思っています。
父が踏んだ武道館の舞台へ
後にも先にも、やはり僕の指標は父です。
様々なジャンルや、国の音楽を聴いてはきましたが、自分の目で見て一番すごいと思った人が父だったんです。
ですから、民謡を始めたきっかけにもなった、父が立っていた武道館のステージで、単独ライブをしたいと思っています。
また、海外での活動もしたいです。
20歳の時に訪れたブラジルで、音楽の価値が高く、それでいて生活に密接だったことがとても印象的だったんです。
和に特化した他にないスタイルを確立できたので、国境を越えて世界に発信していけるようになっていきたいです。
取材を終えて・・・
5歳から民謡を始められ、父と子の二人三脚でずっと進んできたというお話は、とても印象的でした。
本当にわずかな人しかチャンスをつかめない世界で、今チャンスをつかむことができたのは、思うようにいかない時代にも諦めず、くさらず、前を向いて進み続けてきたからでしょう。
木島さんの歌声は優しくのびやかで、言葉一つひとつが聴くものの心に届くような印象を受けました。
10月のワンマンライブで、ぜひ生の歌声を聴いてみたいです。
プロフィール
木島ユタカ(きじま・ゆたか)
兵庫県伊丹市出身。
5歳から父親に習い民謡を始め、数々の民謡全国大会で優勝。
中学時代はバンド活動でJ-Popをコピー、18歳で本格的に洋楽を聴き始め、歌唱の幅を広げてゆく。
上京し、ライブ活動を行った末、28歳の頃、自身のルーツである「民謡」へと立ち返る。
現在は、津軽三味線の弾き語りという独自のスタイルを確立し、2017年、ミニアルバム『和のこころ』をリリース。
7月5日にセカンドアルバム『和のこころ2〜ケルティック編〜』を発売。リード曲の「十年経てば」は7月度有線J-Popお問合せランキングで2位にランクイン。ワンマンライブが10/6に大阪、10/8に東京で開催される。
◆オフィシャルホームページ http://kijimayutaka.com/