戦場ジャーナリストから転身、日本初のプロ・バグパイプ奏者となったスゴい人!

兵士になるしかない!?

いきなり従軍カメラマン

「プレイヤー」として立つ

素人同然で戦場にジャーナリストとして飛び込み、15年にわたって多くの戦場取材を敢行。
「カトケン」の愛称で親しまれ、自衛隊のオピニオンリーダーにも選出された。
ところが、ある時を境に、全く畑の違う「バグパイプ」の奏者へと転身を遂げる。
何が彼を戦地へ赴かせたのか?
何がきっかけで音楽家の道を選択したのか?

さあ…
バグパイプ奏者
加藤 健二郎様の登場です!


自分の興味で頭が一杯

自分の世界に没頭している子どもで、幼稚園では他の子がしている事に見向きもせず、心配されていたようです。
父は化学系の会社員、母は専業主婦で、特に変わった家庭だとは思っていなかったのですが、引越し魔でして。
転勤を断らないって、当時は珍しかったと思います。
尼崎市で生まれて、5歳で小金井市、横浜へ行って…転校ばかり。
友達の家を見て、「ウチって変わっているのかな?」と疑問に感じたり(笑)
小さい頃から、父親世代の大人たちの戦争体験を聞くのが好きでした。
隣のお兄さんが持っていた、軍艦のプラモが羨ましかった記憶もある。
その辺りからミリタリー趣味に目覚めたのかな。
第二次世界大戦についての書籍を読んだり、近所のパイロットさんとお話ししたり。
望んではいなかったけれど、また日本で戦争が起きるのでは、なんて思っていました。

戦地への憧憬

高校の頃「あ、日本は戦争にはならないな」と気付きました。
「次の戦争」なんて言っている自分は、取り残されていると。
ミリタリー趣味は継続しましたが、戦争の話もしなくなり、本音を出さない時期でしたね。
それでもサバイバル的な強さに憧れはあり、山岳部に入りました。
東京理科大学で機械工学を専攻しましたが、「1/1000mm」単位の細かい世界が合わなくて。
かたや土木工学に進んだ友人が「何km」だとか、「誤差は30cmまで」などと言っている。
「何それ、その大雑把な感じ!そっちの方がいい!」と思って(笑)
再受験を考えていたら、父が「理科系は、この専攻は違うと思ったら切った方が良い。時間を無駄にするな」と後押ししてくれました。
その頃大学の友人から影響を受けて、戦争取材の本を読むようになり、海外には戦場があると知りました。
取材は特別な人が行くのだろうし、どうにかして戦地へ行けないか、と考えて。
就活中、日本の建設会社が海外で軍港を作っていることを知って、これだ!と。
軍港や橋を作る土木技術者としてなら戦場に行ける、と思いました。

兵士になるしかない!?

イラン・イラク戦争当時、両国に軍港を作っていた企業に就職しました。
希望通り海外事業部に配属されましたが、戦争の長期化や円高の影響もあって、海外に行ける現場が無くなってしまった。
失望して、26歳で退職。
結局、戦地を見るには兵士になるしかないと悟り、フランス外人部隊へ行きました。
若い時こそ命の無駄遣いをする判断をしてしまうのかな。
周囲には「ヨーロッパで公務員の試験を受ける」と説明して。
駐屯地の入隊試験を受けましたが、近眼で落とされてしまいました。
努力で乗り越えられない大きな挫折です。
スペインの部隊はどうかと、マドリッドまで行きましたが、外人部隊を見つけられず。
それならばアメリカだ、とボストンへ飛び、テストを受けました。
合格はしたものの、色々と書類が必要で、煩雑な手続きに音をあげまして。
望んでいた「飛び込めばどうにかなる」世界では無かった。

いきなり従軍カメラマン

その後ニューヨークの安宿に移りましたが、どんどん現金が無くなって…クレジットカードを手に、ダメ元で銀行に行ったら「1日1000ドルまでなら出せる」と言われ、勢い余って7日間で7000ドルも出しちゃって(笑)
お金はある。これで何もできない訳にはいかない。
外人部隊も米軍も、人に雇ってもらおうというのが失敗だった。
乗り込んでしまえば、そこに戦場は存在しているのだから。
グアテマラでスペイン語を学び、内戦中のエルサルバドルへ向かうことに決めました。
当時、中南米の物価が安いと知らなかったのですが、生活費は1日5ドル程度。1年は持つ。
スペイン語も始め、様々な旅人と情報交換し、取り敢えず戦場へ行ってみました。
ところが、不審人物は検問で追い返されてしまう。何度も断られて。
それを見ていたジャーナリスト達が「カメラマンと名乗れ。手続きは教えてやる」と。
彼らにしても、素人のせいで検問のガードが固くなるのは迷惑だった(笑)
晴れて取材許可証を取り、なんとか正式な従軍カメラマンになりました。

死ぬつもりは無い!

エルサルバドルの戦闘は、街中で突然始まって、すぐ終わる。
何しろ現場を抑えるのが難しく、「戦闘に立ち会う回数が多いほどセンスが良い」という世界。
僕はなぜか遭遇率が高く、ピューリッツァー賞の受賞者二人に「どうして毎回現場にいられるのか」と尋ねられたりしました。
戦場において、目前で人が亡くなったこともあります。
チェチェンでは、砲撃で仲の良い兵士が2人亡くなりました。
いつも居る場所に攻撃を受けたのですが、丁度その時体調が悪く、地下室で寝ていて助かった。
瞬間的に「まずい」と思ったのは、包囲されている街に軍用トラックで突入する際、兵士達が祈っているのを見て、「死ぬ気なのでは」と感じた時。
「おれは死ぬ気は無いぞ、どうしよう」と思いました。
義勇兵だと思われて、兵士に「なぜ武器を持っていないのか!?」と怒られるし(笑)
結局そこには一週間ほど居て、深夜に脱出できたのですが。

「プレイヤー」として立つ

戦場ジャーナリストとしては、42歳でイラク戦争に行ったのが最後。
トラブルを起こさず、バグダット陥落まで現地に残るのを目標にしました。
15年間で通算76回戦場に行き、戦闘遭遇は26回。
なぜ辞めたかというと、取材に対して飽いてしまった部分があって。
この先、人の事ばかり追いかけて終わりで良いのか、と自問自答した結果、自分が「プレイヤー」になりたくて、次に何をやるか模索しました。
43歳の時、インターネットでバグパイプの先生を見つけ、楽器も手に入れました。
5年間修行して、現在はこれが仕事です。
実はバグパイプもミリタリーから入ったんです。
小学生の時に観た映画『史上最大の作戦』の、撃ち合いの最中に能天気にバグパイプを吹いて歩くシーンが面白くて。
43歳で今までのキャリアに全く関係ないものに出会えるなんて、中々ないですよね。
戦場への気持ちが薄れるくらい、今は大事です。
「スゴい人」にも登場した及川眠子さんが、僕の本を読んで連絡してくれて、『愛の人質』という曲が生まれます。
東日本大震災の時は、バグパイプの出番だ!と、炊き出しの方々と現地に行きました。
音響設備も電源も不要なので、楽器だけで何処ででも演奏できる。
今でも、縁もゆかりも無かった東北の村々に繋がりがあります。
バグパイプは「現場」に立てる、プレイヤーの最もたるものの一つ。
今後も一回一回の出演を大切に、演奏を続けていくつもりです。

取材を終えて・・・

元戦場ジャーナリストとお聞きし、いかつい方を想像していたが、とても柔和な印象で驚いた。
ただし、語られるお話はとてもハードであったが。
戦場ジャーナリスト時代、「オーソドックスに伝えたい」というこだわりがあったという。
例えば銃器を撃つ瞬間には火が出る、だからその瞬間を撮影したい。「これが戦争だ」と。
バグパイプ奏者としての今後の展望は、「僕はバグパイプそのもの、を伝えていきたい。これがバグパイプだ、これがその演奏だ、と」
ここにあるものをそのまま伝えたい、という「ジャーナリスト魂」は健在だ。
是非、演奏を聴きに行かねばなるまい。


プロフィール

加藤健二郎(かとう・けんじろう)
建設会社に勤務後、1988年から2003年にかけ、世界各地の戦場に入り取材を行う戦場ジャーナリストに。
1997年より防衛庁オピニオンリーダーに任命。
2004年より音楽活動を開始、日本初の職業バグパイプ奏者となる。
主な著書に、『女性兵士』『戦場のハローワーク』『自衛隊のしくみ』など。
音楽作品に、『愛の人質』(作詞:及川眠子)、『驀進バグパイプ』シリーズなどがある。
また、4月29日から東京ワンピースタワーで開催されている、「ONE PIECE LIVE ATTRACTION〝3(サード)〟『PHANTOM(ファントム)』」へGReeeeNが提供した2つの新曲に、バグパイプで参加している。

◆加藤健二郎公式ページ「東長崎機関」
http://www.higashi-nagasaki.com/

◆東京ワンピースタワー公式
https://onepiecetower.tokyo/

◆『愛の人質』 特設ページ
http://www.higashi-nagasaki.com/ai/

◆Amazon著者ページ
http://amzn.to/2tIPHnb

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