全国から受講者が集まる手話・日本語教室を主宰する手話通訳士のスゴい人!

お酒を飲んで暴れる父と、私のために耐える母

手話を始めたきっかけは、夫の仕事のためだった

大変でも、間違った選択はない

本日登場するスゴい人は、手話通訳士・日本語教師として活躍するスゴい人!
彼女は政見放送の手話通訳も行う手話通訳士であり、手話教室を主宰し、ろう者(聞こえない方)のための日本語教室も行っている。
日本語を文法的にかみ砕いて手話で伝えられるプロは彼女だけだと言われ、彼女の教室には日本全国から受講者が訪れる。

さあ…
テンダー手話・日本語教室
代表 鈴木 隆子様の登場です!


お酒を飲んで暴れる父と、私のために耐える母

私が幼い頃から、父はお酒を飲むと暴れて母に暴力をふるっていました。
小さい頃は母の実家で祖父母と両親と暮らしていたのですが、父が暴れ出すと私は祖父母の部屋に避難させられていました。
当時はまだ離婚することが珍しい時代だったので、母はそんな父と結婚してしまった自分を責めてうつになりながら、「隆子が結婚するまで」と耐え続けており、ずっと形だけの家族をしていました。
私は母がかわいそうで、母を守らなきゃ、という思いでいっぱいでした。
何でうちばかり…と何度も思いました。
こうした環境で育ったため、好きで聞こえなくなったわけではない、ろう者の方々の苦しみを他人事と思えないのです。

大企業に就職したものの…

大学卒業後、大手建設会社に総合職で就職しました。
最初は大変でしたが仕事はやりがいもあり、充実した生活を送っていました。
ところが、ある時からペアで仕事をする課長からのセクハラが始まり、それを上司に相談しても誰も私の味方をしてくれませんでした。
そんな状況に腹が立ち、仕事にはとてもやりがいを感じていたため悔しさはありましたが、3年で退職を決意しました。

日本語教師としてのスタート

そんな時、たまたま日本語教師の試験制度が整ったタイミングで通信講座の募集が出ており、これでやっていこうと決めました。
学生時代、英米文学を専攻して教員免許を取っていたこともあり、どこかで言語が好きだと言う自覚があったからです。
25歳の12月に会社を辞め、自宅で通信教育を受講していましたが、当時はフリーターなどもいない時代ですから、社会に居場所がないような気持ちで不安になっていきました。
新聞の広告欄に日本語教師のための専門学校が出ており、通うことにしました。その学校で受付をしながら勉強をしていました。
無事に日本語教育能力検定試験に合格し、その日本語学校で日本語教師として生徒に教え始めました。
個人レッスンからスタートし、企業への出張レッスンの担当として、様々な企業で教えることとなりました。

結婚・出産と母の支え

その頃父の暴力はますますひどくなり、最後の家族旅行をしようと箱根に行きました。
父と母の間には会話は無く、全然楽しくありませんでしたが、ホテルのレストランのウェイターさんがとても良くしてくれました。
旅行後に一緒に撮った写真を送ったことからお付き合いが始まり、結婚することとなりました。
実は、まだ結婚など考えていなかった段階で妊娠したのです。
当時はまだできちゃった結婚があまり多くない時代でしたので、産んであげられないかもしれないと思いながら母に打ち明けると、「何も心配いらない。私がいるんだから産みなさい。」と言ってくれました。
私が子どもの頃から、母は「結婚はしなくてもいいから、子供は生んだほうがいい。私も結婚は失敗だったけれど、あなたを産んで本当に良かったから」と言っていましたが、それから20年くらい経ったその時も変わらずに応援してくれたのは心強く、とても嬉しかったです。

手話を始めたきっかけは、夫の仕事のためだった

ある時、ホテルで結婚式を担当していた夫が聴覚障害のカップルの結婚式の担当になったため、自分も手話でコミュニケーションをとりたいと言いました。
夫は仕事の時間も不規則で教室に通うことが難しかったので、私がどこかで習ってきて教えてあげようと思ったのが手話と出会ったきっかけでした。
最初は教会の手話サークルに参加したのですが、そこで生まれて初めて聞こえない人に会いました。
始めのうちは周りの人たちも手話で会話をしているのですが、食事中の雑談などになると手話を使いません。教会で出会ったろう者の方は笑顔が素敵で明るくて、私がそれまで勝手に思い描いていた障がいのある人のイメージが覆りました。そして、もっと話をしたいと思うようになったのです。
そこで、孤独には2種類あることを知りました。
1つはその空間に他に誰もいない孤独。もう1つはみんながいる中で自分だけ輪に入れない孤独です。
会話に参加できない孤独を目の当たりにした私は、「何とかしなきゃ!」という思いで市役所で行われている手話講習会に参加しました。
また、ろう者の方と手話関係のNPOで一緒に仕事をする中で、文章の中の「てにをは」が間違っていることが多く、「ろうって使えないね」と言われることに悔しさを覚えました。
手話には助詞が無く、「〇〇で」や「〇〇に」という部分は、指し示すのです。
彼らの間違え方は、日本語学校で教えていた外国人の方々と似ていて、ろう者の方々向けに手話で日本語を教えれば、コミュニケーションをとれるようになると考えました。
ろう者の方たちにとっては手話が母語で、日本語は第二言語なので、上手く書けなくて当然です。
できないなら習えばいいのです。
何か専門的な技術を身に着け、年を取って経験を積むほど活躍できる仕事をしたいと思っていましたし、母が英文タイプの講師として長年活躍するのを幼いころから見て憧れていたので、手話通訳の仕事はすべてが私のやりたいことにかなっていたのです。

大変でも、間違った選択はない

夫とは2年前に離婚しましたが、夫は浪費が激しく、私の名義で借金が増え、多い時は8社くらいから借入をして、返済のために別の会社から借入をするという悪循環に陥っていました。
でも今振り返れば、夫と結婚していなかったら手話をやっていませんでしたし、大変でしたが何も間違っていなかったと思っています。

同じタイミングで笑える喜び

手話通訳の仕事をしていて一番うれしいのは、タイムラグなくちゃんと伝えられた時です。
通訳のタイミングが遅れると、周りの人が笑っていてもなぜ笑っているのかわからず、「どうして笑っているの?」と聞かれることがあります。
だから、手話通訳のタイミングが合って同じタイミングで笑ってくれると、心の中でガッツポーズをしますね。
また、教室では生徒さんが検定に合格したり、成長していくのを見ることが大きな喜びとなっています。
この仕事は、私にとって一生の仕事だと思っています。

取材を終えて・・・

終始ニコニコ笑顔でお話しくださり、お話を聞いているこちらまで笑顔にさせられてしまう鈴木さん。
しかし、お話しくださるエピソードは家庭内暴力、お母様のうつ、かつての旦那さんの借金、そしてご自身もお父様の暴力によってPTSDを患うなど、衝撃的なお話ばかりでした。
こんな大変なご経験をされていながら、明るく笑顔でいることは決して誰もができる事ではないでしょう。
特に印象的だったのは「ろう者の方にとって日本語は第二言語」という言葉です。
鈴木さんのお話を伺うまでは手話を特別なものと考えてしまっていましたが、第二言語として英語を学ぶような感覚で学んでいいのだと思えました。
聴者にとっても、もっと手話が身近なものになっていけばいいなと思います。


プロフィール

鈴木隆子(すずき・たかこ)
テンダー手話教室&テンダー日本語教室 代表
手話通訳士。日本語教師(日本語教育能力検定試験合格)。教員免許状(英語)。宅地建物取引主任者。語彙・読解力検定準1級。
立教大学時代は、東京六大学野球のチアガール。
映画「外事警察」(2012年)に手話通訳士として出演。
2012年衆議院選挙で民主党野田首相(当時)の政見放送の手話通訳を担当。
手話教室のほか、聞こえない人のための「手話で行う日本語講座」も開講。

◆テンダー手話教室
http://tendershuwa.com/index.html

◆手話通訳.com 鈴木隆子のブログ
http://blog.shuwatsuuyaku.com/

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