難病ALDの息子と共に、ALDの世界に一石を投じ続けるスゴい人!

死にたいほどのどん底から救った出来事

すっかり忘れていた息子の言葉が転機に

私が思い描く理想的な施設

ALDとは脳のなかの白質と呼ばれる部分と副腎という腎臓の上にある小さな器官の働きが低下する進行性の病気。進行には個人差があるが、元気に生まれ育った子が突然、学力の低下や視力、言語、歩行に障害を発症し、進行の早い場合は1年以内に死亡する事もある難病。
ALDを発症した息子さんを献身的に介護し続けるが、ある事をきっかけに絶望感に包まれ死を意識した。今の彼女は本当にキラキラとパワフルに生きている。
彼女はどんな経験・体験をされてきたのだろうか?

さあ…
特定非営利活動法人ALDの未来を考える会
理事長
本間 りえ様の登場です!

愛息の変化

普通に幼稚園に通っていた光太郎が、5歳くらいの時に急に元気がなくなりました。
幼稚園の先生は「思い違いですよ」と言うのですが、避けられる柱にぶつかったり、静かに座っていられなくなったり、おねしょをしだしたり。どんどんおかしな行動が増えていきました。
上履きのまま幼稚園から帰って来た時、これは何か大変な事が起きていると直感しました。
どの病院に行ったら良いか分からなかったのですが、とにかく色々な病院に連れて行きました。

突然のALDの宣告

多動症状のキャンプに行った事のある看護師さんからの紹介で、藁にもすがる想いで受診したクリニックで「脳の大変な病気だと思います」と言われ専門医を紹介されました。
専門医の診断を受けると、「あなたのお子さんは、副腎白質ジストロフィー・ALDという病気です。日本では今、何もできる事がありません。放っておけば、1、2年以内に亡くなります。生きていても、植物状態でしょう」と言われました。
宣告の時、パパは、ショックで病室から出てしまいましたが、光太郎はニコニコ私のことを見ているから、泣くどころではない。しっかりしなきゃと思いました。
助かる可能性としては骨髄移植のみ。家族に適合者がいるようにと祈りました。
お姉ちゃんの型が適合。
当時の医療では骨髄移植をする際、現在よりとても強い抗がん剤を投与する必要があり、投与の数日後には歩行も発声も出来なくなりました。
でも、今命があるのは骨髄移植のおかげだと思っています。

みなぎる愛情・感謝

大変な治療を乗り越え、退院は厳しいと言われたのですが家に連れて帰りました。
入院時は、毎日病院に寝泊まりし朝から晩まで付き添い、土日だけパパと交代で、掃除や洗濯、ご飯も何食もつくり、睡眠もほぼなし。
光太郎の看病に徹したいにも関わらず、眠くなったり、お腹がすいたりする自分を恨んだ時もありましたが、光太郎の目を見たら、何だって出来るんです。
皆から「何でそんなに元気なんですか?」と言われるけれど、感謝の力が湧いてくるんです。
日々、毎日、共に過ごす事が介護だと私は思います。
光太郎を通じ「生きている」感謝を学ばせてもらっています。

死にたいほどのどん底から救った出来事

光太郎が発症し、それから10年間は外にも出ず、メイクなんてとてもする余裕がない状態でした。
自分の食べさせたもので光太郎が肺炎になった時、「こんなに頑張って来たのに自分の手で光太郎を苦しめてしまった」と病気を宣告された時より落ち込みました。
もう頑張れないと心神喪失状態でふらふら歩いていた時に、交通事故にあいました。
気づいたらベッドの上。死にたいと思っていたのに、かすり傷一つなく無傷で、食いしばったせいか、奥歯が3本欠けていた程度でした。
この奇跡を真摯に受けとめ頑張って生きようと思いました。
その時に通った心療内科の先生がすごくいい方で、本当は鬱と診断されても良いのにも関わらず「君は燃え尽き症候群だよ。本当に、よく頑張ったね。今まで10年間もよくあきらめないで、頑張って来たじゃない。僕が褒めてあげるよ。とにかく自分の時間を持ちなさい」と承認されたことで救われました。
その帰り、10年ぶりに自分の化粧品を買いに行きました。当時の私は、まだ30代でした。

すっかり忘れていた息子の言葉が転機に

化粧品カウンターでお化粧を教えてもらい帰宅すると、お姉ちゃんとパパが「お母さん、すごくキレイだよ」って褒めてくれたのです。
そしてその時、参観日の前夜「ママ、明日は口紅つけてスカート履いて綺麗にして来てね」太郎が言っていたのを思い出したのです。
綺麗なママでいることで光太郎が嬉しいのならば、光太郎の為に綺麗な格好をしようと思いました。
メイクをして楽しそうに帰ると光太郎がどんどん笑うようになり、家族もどんどん明るく変わっていきました。
自分の為に母親が苦しんでいる姿は、子どもとしても辛いんです。
こんな珍しい難病になって家族は悲劇のヒロインになりがちですが、お母さん達には前向きに明るく振る舞いましょうと言っています。
私の周りにいるALDの子をもつお母さんは、みんな本当に綺麗でいきいきしています。
子どものためにも元気で明るくいないと!

親の会はたった5家族からスタート

親の会は最初、5家族くらいからスタートしました。
参加者がすごく喜んでくれて、こんな風に喜んでもらえるのだったら継続しようって思えたのです。
無一文から始めたので、沢山の協力者を得るため、本も沢山読んで交渉術も勉強しました。
普通の主婦が光太郎のお陰で色々な事を学び、活動的になれました。
いつどんな課題が来てもクリアーできる準備は常に心掛けています。

外に出るきっかけづくり

障がいをかかえた子どもがいると「外に出るのが申し訳ない」と思ってしまったりして
お母さんが外出するきっかけがなかなか無いのです。
でもそれが子どもの為の勉強会だったら「勉強しにいくんだ」と、自分に言い聞かせる事が出来るでしょ。
そして、ママ達に会うから綺麗にしていこうとも思えるでしょ。
私にはロールモデルがいなかったけれど、私との出会いがお母さん達の元気に繋がって欲しいです。
障がいをかかえた子どもがいても、元気で明るいお母さん達が地方に広がっていったらいいなと思います。
私だけではなく地方にも頑張っている発信してくれるお母さんが増えると、世の中をすごく元気にするんです。実際にもう何名か出てきました。
将来的にはその輪をどんどん広げて、施設を建てたいです。

私が思い描く理想的な施設

私が元気でみてあげられるうちはいいけれど、順番からみると私が先に死にます。
例えばアルツハイマーの患者さんでも、その人に適した仕事や役割を皆が持ち、共に助け合う施設を作りたいんです。
田舎ではなく敢えて都会のど真ん中にあるのが良いんです。
普通の若い子達が、カフェと間違えて足を運びそうなぐらいお洒落な入り口で、中に入ると実は施設だったという感じ。
ちょっと寄って行きませんか?と話しかけて来た人が実は認知症のおばあちゃんを自然に介護していたりするんです。
自然と受け入れるからこそ、若い子が気軽に人生相談しに来たりね。
お花も綺麗に植えて、17時になったら私が着物を来てバーをやったり。
健常者と障がい者の垣根を一切取り払った施設を作りたいです。

私は50を過ぎたので「死ぬ時は潔く」という死生観を持っています。
実際はまだ光太郎がいるから元気でいないとだけれど、いつでもいいと思うぐらい日々真剣に生きています。本当に世の中、一人ひとりが全員一生懸命毎日を生きて、周りの人達に少しでも愛を伝えていけば笑顔が広がる世界になります。

取材を終えて・・・

難病の息子さんを20年以上も介護されてきた人とは思えない程に、明るく元気で悲壮感は全くない方でした。
但し、この病気を啓発する思いと息子さんへの愛情の話になると、眼力が一気に強くなり話し出す。
「息子の為だったらなんでも出来るんです!」という言葉に、母親の強く深い愛情を感じました。
必死に介護し、神経がピリピリしていた時期が長く続いたと話されていましたが、その奥さんと息子さんを側で支え続けた旦那さんも素晴らしい。
毎晩、お風呂に一緒に入ってくれたり、率先して息子さんの面倒を見てくれる姿をみると「この人と結婚して良かった」と本間さんは話されました。
息子さんは確かに障害を抱えましたが、こんな素敵な家族と過ごせるのは幸せなのでしょう。

プロフィール

本間 りえ(ほんま・りえ)
特定非営利活動法人 ALDの未来を考える会 理事長
神奈川県横浜市出身。
結婚後、長男、長女に恵まれごく普通の専業主婦としての生活を送る。
長男のALDの発症を機に、初の介護生活を経験する。その経験を元に「ALD親の会」を発足。
11年の活動を経て、2012年、特定非営利活動法人「ALDの未来を考える会」設立。
著書に『いのち、光るとき』(河出書房刊)
医療施設、大学、セミナーなど講演多数。医学部の学生の育成に貢献。雑誌「STORY」密着特集、BS日テレ「よい国のニュース」ほか。

◆短編映画『もがき』(河出書房協賛 原作『いのち、光るとき』)
https://youtu.be/hG3XQOx56Ew

◆特定非営利活動法人 ALDの未来を考える会HP
http://ald-family.com/

◆『いのち、光るとき』(河出書房刊)

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