介護とシェアハウスで新風を起こすスゴイ人!➡熊谷勇太様 DAY1

本日ご紹介するのは、「選択肢と可能性を広げる」株式会社HABING、代表取締役社長 熊谷勇太様。2020年の会社設立以来、高齢者・障がい者向けのシェアハウス「IDEAL・アイデアル」を運営されています。驚くようなアイデアで利用者の暮らしを支えている熊谷社長ですが、介護の道に辿り着くまでには激動の人生を歩んで来られました。今回はその壮絶な生い立ちと共に、熊谷社長が目指す福祉の未来を伺いました。

 ゴーイングまぃうぇぃ 

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児童養護施設での生活

(今回はHABINGさんの世田谷のシェアハウスIDEALで取材させて頂きました。)

 

編集者(以下、編):本日は貴重なお時間頂きありがとうございます。

熊谷勇太さん(以下、熊):よろしくお願いいたします。

 

編:新しいシェアハウスも完成されると伺いました。

熊:おかげさまで、世田谷区で2棟目のシェアハウスとなります。

2棟目完成予定図

 

 

編:北海道ご出身と伺いましたが、世田谷区にはご縁がおありだったんですか?

熊:私は生まれたのは埼玉県です。実は幼少期から母親が何度か変わっているんですが、産みの母親と父親が北海道出身です。私が2歳ぐらいの時に両親が離婚しまして、父親に引き取られました。週末だけ母親の家に遊びに行く生活をしていたのですが、諸事情で父親は私を育てることが困難になってしまったので、児童養護施設に、預けられました。

編:そうだったんですか。児童養護施設にはいつまでいらしたんですか?

熊:2歳から6歳まで4年間いましたね。小学校に入ったら周りに「養護施設の奴」と言われることが子ども心に悔しかった記憶があります。

その反動かもしれませんが、入学して3日後くらいにはデッキブラシを振り回して友達を追い回していました。(笑)

編:ええ!小学1年生で?

熊:はい。幼稚園児の時から “施設の子”と呼ばれてからかわれていたので、幼い時から自分を守ること、居場所を確保することに真剣でした。授業参観日に両親は来ないですし、卒園アルバムも施設の先生と撮りました。幼い時から「自分はみんなとは違う」という意識がありました。

編:言葉にできない、心の葛藤があったのでしょうね。

熊:一番辛かった思い出の一つがクリスマスの時でした。クリスマスプレゼントに私は仮面ライダーのベルトが欲しかったのですが、自分の元に届いたのは小さなレゴブロック。しかもその僕が欲しかったおもちゃは施設の別の子がもらっていたんです。

編:それはどうしてなんですか?

熊:後から聞くと、それはそれぞれの子供の両親が用意したものだったらしいのですが、レゴブロックを用意してくれた父親の気持ちを理解できるはずもなく、その時の僕はプレゼントの差を感じてただただ悲しかったですね。自分は施設育ちだから、欲しいものももらえない、ご飯も決まった時間にしか食べられないという現実が普通の友達と比べて中々厳しいものだと感じていました。ただ子供だったのでその環境には割と順応していましたし、先生方も自分のことをよく育ててくださったと今は本当に感謝しています。

編:そのおもちゃはサンタさんからのプレゼントだと信じていたのでしょうか?

熊:半信半疑だったと思います。サンタの格好をした外国人の方や、ボランティアの方々などがクリスマスに施設に来てくれていたので、信じる子どももいたと思います。ただ私は自分が普通の子ではないことに早くから気付いていたのでその影響もあってか少し現実的な子供でもあったように思います。

編:その施設には何人ぐらいの子どもがいたんですか?

熊:50人くらいですね。ですから先生たちも大変で、子ども達が各々好きな時間にご飯やおやつを食べることは当然出来ませんでした。小学1年生の夏休みに「お父さんとまた一緒に暮らしたいですか?」と聞かれ、「暮らしたい!」と答えました。そうしてまた家族で暮らす決断をしました。

編:家族に戻れると聞いた時はどのような心境でしたか?

熊:素直に嬉しかったです。それまでは父親とも年に数回しか会えていなかったので。でも自宅に戻るとそこには「新しいお母さん」がいました。

 

バブル崩壊とともに再び失った家族の形

編:それはびっくりなさいましたよね。どう受け止められたんですか?

熊:2歳から施設に入りましたので、そもそも親という存在と一緒にいたことがなかったので、新しいお母さんがいることに対して悲しいとか悲しくないとかの気持ちではなく、その現実を受け入れるしかないと腹を括っていた気がします。

編:そういった辛い経験があったからこそ、人に寄り添う事業をなさっているんですね。

熊:そうかもしれませんね。だからこそ今でも当時の施設の方々が支えてくださっていた幼いころの日々にはとても感謝しています。そうして、6歳の夏に家族とのアパート暮らしが始まりました。二番目の母は料理上手な人で、味噌汁の作り方やお米の研ぎ方なんかも教えてくれました。礼儀やしつけに厳しい人でしたが、とても良い人で本当に感謝をしています。

編:まさに育ての親ですね。

熊:そうしているうちに、当時のバブル景気の影響もあって父親が会社を立ち上げました。それが上手くいって、家には家政婦さんがいるようになり、父親の車が高級車にもなりました。ある日、家に帰ったら突然自宅の増築が始まっていたり、毎週末家族でどこかに旅行にでかけるような贅沢な生活をしました。それこそバブルが終わる前の4.5年間はいわゆる富裕層のような暮らしをさせてもらっていました。

編:4.5年で終わったのですか?

熊:その後、父親の会社は倒産してしまったんです。それが原因で当時の母親とも離婚して。バブル経済の崩壊と同時に父の会社も家政婦さんも母親もみんな消えてしまいました。でも父親はそんな状況でも他人になにかしてあげたい人で、借金もあって自分自身のお金が大変にもかかわらず、それまでと同様に元従業員に食べさせたり飲ませたりして面倒を見ていました。

編:小学生で体験した生活レベルのアップダウンの差が大きすぎますね!

熊:すごかったですね(笑)小学校5年生のある日、父親に「勇太、北海道に行きたいか?」と突然聞かれました。私はいつもの旅行の話かと思ったので特に深く考えもせず「行きたい!」と答えました。そうしたら次の日の朝一番の飛行機で必要最低限の物をバック1つに詰めて北海道に旅立ちました。そしてそれはまさかの「夜逃げ」のような旅行で、東京に帰ることはない片道切符だったんです。

編:え!そんなことが!!北海道のどこに向かわれたのですか?n

熊:初めて会う親戚の方の家に預けられました。父親は身の回りの整理をするため埼玉に戻っていきました。結局半年くらい叔父の家にお世話になったのですが、そちらには娘さんが二人いるご家庭で、いきなり育ち盛りの男の子二人が転がり込んできたわけです。親戚とはいえ初対面の家族といきなり暮らすことになり肩身が狭かったですね。食事は毎日そうめんでしたが、とても美味しかったです。山に山菜を取りに行ったりして天ぷらにして食べていました。今でも仲はいいですし、住ませてもらったことには本当に感謝しています。

編:お父さんはその後戻って来られたんですか?

熊:3.4ケ月ほしたら、埼玉から父親が戻って来たので、今度は風呂なしの長屋に住み始めました。もちろん自宅には電話もなかったので、学校からのお知らせや連絡があるとわざわざ近所のクラスメイトが走って伝えに来てくれていました。それがとても悔しくて、情けなくてね。銭湯も一週間に一度くらいしか入れないので、タオルで身体を洗ったりするような生活でした。

熊:そんな暮らしだったので僕はまだ小学生でしたから自宅以外に頼るところもなく、生き抜く術を知らなかったので、食べ物もなくてどんどんガリガリになってしまいました。けれど小学6年生の時に銭湯の上のアパートに引っ越したことで、銭湯のお風呂が毎日入り放題になって、お風呂問題はすっかり解決しました。

編:お父さんすごいですね…!

IDEALには社長自ら作った中庭が

型破りな父に翻弄された生活

熊:ところが小学6年生の年末の寒い日に、父親がずっと自宅に帰って来なかった時がありました。一人で寝ていると夜中に階段を登ってくる音がしたので、ドアの隙間から覗いてみると、血だらけで頭に包帯を巻いた父親がいました。当時父親は、朝は新聞配達、昼は土木、夜はトラック運転手として必死で働いていたのですが、そのトラックで事故を起こしてしまったんです。病院に運ばれたものの、自分をそのまま家に置いておくこともできないと思い、病院から飛び出して家に帰って来たとのことでした。

編:なんて素敵なお父さん!

熊:その時に出会ったのが、看護師だった今の母親です。最初に母親と対面したのは、ちょうど入院を始めた父親に代わってマクドナルドを家まで持ってきてくれた時でした。北海道に来てからは何年も食べていなかったので、久しぶりのマクドナルドがものすごく嬉しかったのを今でも覚えています。そうして父親の怪我が完治した頃に、二人の結婚の話を聞かされました。その時に父親に言ったのは「親父の人生だから好きに生きてほしいけど、自分に迷惑はかけないでほしい」ということでした。

編:小学6年生の言葉とは思えないですね。

熊:本当にそうですよね。自分でもそう思います。(笑)そして3人目の母親の方には1つ年下の男の子の連れ子がいたので嬉しいことに弟ができました。

編:当時の熊谷さんのご様子はどんな感じだったのですか?

熊:ありきたりな話ですが、中学1年生になってヤンキーになりました。自分はガタイが良いという理由だけでよく喧嘩を売られていて、売られた喧嘩は全て買っていました。(笑)中学で最強だなんて言われたりもしていましたね。(笑)ボコボコにされたらやり返す、なんていう事を3年間繰り返していました。

編:お母さんはいきなりヤンキーを育てることになったのですね。

熊:大変だったと思います。(笑)私にしてみれば、これも元自衛隊の父親の影響もあったと思うのですが、自分から喧嘩をしかけることはなくて。売られた喧嘩をしょうがないと買っていただけだし、それも友達のためだったりしました。何でみんなに最強と言われていたのかいまだに分からないです。(笑)父親は喧嘩の度に謝りに来てくれていましたが、ちょうどその時期に父が倒れてしまったんです。

DAY2へ続く

学生ライター:瀬沼佐織・田村陽奈

熊谷勇太様 プロフィール

埼玉県生まれ、北海道育ち

株式会社HABING 代表取締役社長

会社公式サイト:https://habing.co.jp/contact.html

 

 

 

 

 

 

 

 

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