日本においてのモダンチャイニーズを定着させたスゴい人!

東京の山王飯店などで修行し、立川のリーセントパークホテル総料理長時代の功績を買われてTurandot 游仙境の代表取締役総料理長に就任。
その後、横浜のパンパシフィックホテル中国料理総料理長を兼務し、現在は、東京、横浜で4つの中国料理レストランのオーナーシェフとして活躍しているのが、本日のスゴい人。
LOUISVUITTON原宿店のオープニングパーティーを中国料理で彩るなど、多くの著名人が彼の料理のファンとなり、彼の店に来店する。
中国料理にフレンチの要素を取り入れたモダンチャイニーズの先駆者である。
彼の料理を求めて遠方からも多数のファンが訪れるその人気の理由とは…?
さあ・・・株式会社Wakiya代表取締役 脇屋友詞様の登場です!

「あきらめない」
小学3年生の時、寝込んだ母の代わりに父がチャーハンを作ってくれたのですが、美味しくなかったので自分で作ったら、「上手だ」と褒められました。嬉しくて、それから様々な工夫をしてチャーハンを作るようになりました。
この頃から、大人になったら自衛隊の海軍に入り船上の料理人になって世界中を回りたい、と思うようになっていました。
中学生の時に赤坂の山王飯店に連れて行ってもらって、「世の中にこんなに美味しいものがあるんだ」と感動しました。
当時の山王飯店の専務が父の知り合いで、中学を卒業したら山王飯店で働くように、父が勝手に決めてしまい、3月に卒業して、数日後には山王飯店の寮に住み込みました。毎日毎日皿洗いで、本当に辛かったです。
3ヶ月経つと2人辞め、当初は12人いた同年入社の仲間も1年後には2人だけになっていました。
はじめは「背中に目をつけろ」と先輩に怒られましたが、1年経つと親方や料理長の動作を背中で感じ、調理場やホールの声を聞けるようにもなりました。
それでも毎日大変な事ばかりで母に辞めたいと話すと、「3年は辛抱しないと紹介者に申し訳ない。3年たったら辞めてもいい。」と言われて「石の上にも3年」だと思い、頑張ることにしました。
3年経つ頃には包丁も使えるようになり、重い中華鍋も思うように動かせるようになりました。
この時に、あきらめないことの大切さを痛感しました。
27歳の時にある方からのお誘いで、立川にあるホテルの中国料理部の料理長のお話を頂きました。
都心から離れた場所でしたが、好きなようにして構わないと言われ、自分でメニューを作れるなら、と引き受けました。
しかし、オープンして3ヶ月は全く人が来ませんでした。
この状況を打開する為、ディナーショーの食事の提供を申し出ると、大皿の中華はディナーショーでは使えないと言われてしまいました。そこで、フランス料理のように一人一皿ずつ美しい盛り付けで提供しました。
これが大好評で、注目が集まるようになってきました。
また、チャーハン一つでも喜んでもらいたいとお客様を大切にしていくうちに評判となり、遠くからも、多くの方がお越し下さるようになりました。
今は、自分の原点でもある赤坂に料理からインテリアに至るまでこだわったお店を3店舗展開しています。
お客様を大切にする気持ちを忘れず、拡大するよりも一箇所に集約するようなつもりできめ細かな心配りのできる店にしていきたいと思っています。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう