【寺沢 武一】コンピュータを使った漫画の表現を切り拓いたスゴい人!

寺沢 武一

漫画界にコンピュータで描くデジタルマンガの風を吹き込んだ、パイオニアと呼ばれる漫画家のスゴい人が本日登場する。

彼は週刊少年チャンピオンの手塚治虫アシスタント募集記事に応募し、手塚治虫氏の目に止まる。
1976年に上京し、手塚プロダクション・漫画部スタッフとして所属。
その後「大地よ、蒼くなれ」で第13回手塚賞佳作に入選。
78年少年ジャンプにてデビュー作「コブラ」を発表、同年11月連載を開始。
また、80年代はじめからコンピュータを使った漫画創作に着手し、「デジタルマンガ」という名称を生み出した。
今も「コブラ」はコミックス、アニメ、ゲームを通じ、多くの人たちを虜にしている。

さあ…
漫画家
寺沢武一様の登場です!

「“あそび”を大切に」

僕が小学生の頃は、運動オンチで喧嘩には負けっぱなしだったね。
勉強はできたけど、それじゃだめだと思った。
だから中学から体を鍛えるために柔道を始めたんだよ。
すると北海道で6位になって自信がついた。
自信ってすごいよね、やる気がどんどん出てくる。

高校は北海道で3本の指に入る進学校へ行ったけど、嫌われ者だったね。
周りは医者志望だらけだったから、僕も将来は医者になりたいと思っていたんだけど、親戚が病気でね。
大変な様子を見ていたから、ああ、僕には医者はできないなと思っちゃったんだよね。

その後は色んなバイトをしたよ、お金を稼がなきゃいけないしね。
デザイン学校でデッサン指導の仕事もしたね。
特にデザインの勉強をしていたわけじゃないんだけど、子どものころから版画で立体を掘るのが好きだったからね。
掘るときの音が好きだったなぁ。
ある時、デッサン指導をしていた子の友達の家に行くと、何か描いているんだよね。それが漫画だった。
少女漫画に応募するらしくて、賞金が100万円。
「この子よりうまく描けるな」と思って、それで応募したら佳作。
賞金を15万円もらって、これはいいなと思ったんだ。
当時デッサン指導の月給が7万円の時代だったからね。
それから賞金稼ぎで30ページのものを100本は描いたかな。

19歳の時に少年チャンピオンで手塚先生のアシスタントを募集していて、応募したんだ。
そうしたら一度は落とされたんだよね、絵のタイプが違ったらしい。
だけど、手塚先生は落ちた僕に目をつけてくれたんだよね。
手塚先生は、新しい血を漫画に入れたかったんだと思う。
その後は手塚プロダクションに1年いたかな。
先生のすごいところは「捨てていく」ところ。
『火の鳥』を単行本にするために構成しなおすんだけど、要らないコマをどんどん捨てていくんだよね。
それで内容がすっきりしてくる。
先生は教えてはくれなかったんだけど、そういったところを見せてくれて、とっても勉強になったね。
手塚先生には本当に感謝している。

その後は自分の作品の連載を続けて、しばらくしてから病気もしたけど挫折とは思っていないよ。
全部前向きに考えなきゃ。
試練だと思って、苦しいのも楽しむようにしている。
今も体は痛いけど、ふざけていると忘れられるよね。
「真面目になっちゃだめだ、その方がうまくいくんだ」ということをみんなに伝えたいね。
もちろん、いい加減にやれってことじゃないよ。
版画にも「あそび」の部分がある。そういう部分がないと疲れちゃうでしょ。
逃げたくなったら笑ってごまかせばいいんだよ。
“Today is my day”いつもそう思っていたいね。

◆寺沢武一公式サイト
http://www.buichi.com

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