劇作家・藤沢文翁様
Break a leg
朗読劇をご存じですか。ただ声に出して読む芝居。そんな先入観を持つ多くの人の予想を超えるのが藤沢文翁さんの朗読劇です。作・脚本・演出を自ら担当し、英国朗読劇や日本古典の落語、オペラを取り入れた独自のスタイルの音楽朗読劇『藤沢朗読劇』を確立したご本人です。従来の朗読劇とは全く違ったエンターテインメントとして注目を浴び、「本当にチケットが取れない朗読劇」と言われています。演劇の世界に生きるべく生をうけ、演劇とともに生きてきた、藤沢さんの半生を伺いました。
本田技研工業の創業に携わった祖父に見守られて育った幼少期
──演劇や舞台芸術に興味を持ったきっかけはなんでしょうか。
バリバリのビジネスマンだった祖父(編集注:本田宗一郎の片腕と呼ばれる実業家・藤沢武夫氏)が非常に趣味人で、影響を受け続けて育ちました。演劇やオペラといったものが日常的に存在しており、とても身近でした。祖父だけでなく、両親や叔父叔母も演劇や舞台が好きで知見もあったので、僕が何か尋ねれば、すぐに誰かから答えが返ってくる環境でした。
──海外の作品を多く鑑賞されていたのでしょうか。
そうですね。やっぱりオペラやバレエなどクラシックが多かったですが、歌舞伎など日本の舞台芸能も鑑賞していました。
祖父はホンダの人たちのために歌舞伎座を貸し切って、教養を高めるために解説をする活動もしていました。とんでもない教育方針ですよね。
僕が「今日、おじいちゃんは何を見に行くの?」と聞けば「女殺油地獄(作:近松門左衛門)だよ」とか「切られ与三(作:三代目瀬川如皐)だよ」とか。子どもにもタブーがなく、作品に描かれた悪の魅力があるということを教えてくれました。
これは僕の今のもの作りにも影響しているんですが、僕が考える究極のエンターテインメントは『子どもは少し背伸びできて、大人は少し子どもに帰れるもの』が一番いいかなと思うんです。『女殺油地獄』はちょっと背伸びし過ぎですけれど(笑)。
それを大人と一緒に見ているうちに「こんなのもわかるようになったのか。凄いな」と言われているうちに子どもは大人になっていきます。褒められればうれしいし、江戸から続いてきた物語を理解しようとしていることを褒められれば、悪の物語に実際の生活を染めることもないですから。
──当時、ご自身はどのようなお子さんでしたか。
今でいうところの「学習障害」のようなものがある子どもでした。
例えば英語の試験で「私は英語ができませんから、勉強を頑張らなければなりません」という文を英語に訳すという問題が出たとします。その答えはわかるのですが、答えてしまうとその文は辻褄が合わなくなってしまいますよね。英語ができないはずの『私』が『正しい英語に翻訳する』わけですから。正しい回答をすることで、その回答が成立しないことが気にかかってしまう。そういうミスが多かったです。
──なるほど。説明していただくとミスの理由がわかりますね。
学校の勉強は算数や理科など教科が分かれていますが、それもどうして分けて勉強するのかも子どもの頃はわからなかったんですよね。成績はぐちゃぐちゃでした。親はとても心配していましたね。
脳のキャパが小さいんじゃないか、特別な教育がいる子じゃないかと大人たちに心配されていました。身内はみんな難関私立小学校だったんですが、難関私立小学校に入るための塾に僕は断られるほどでした。ただ、祖父は「でもこいつはオペラのセリフを全部覚えてるぞ」と。
当時海外のものは字幕スーパーがなかったので、オペラファンは聞いて覚えてから舞台を楽しんでいました。そのセリフを僕は全部覚えている。だから学校の勉強が記憶できないということではないだろうと、祖父は話してくれたんです。
──気づいてくれる人がひとりいるだけで安心できますね。
そうですね。勉強は、ある日、ふとわかるようになりました。そのきっかけはフィボナッチ数列です。自然界の数列でそれを比率化させてできたのが黄金率です。自然界を模倣した美しさを感じて、数学でアートが表現できると思いました。この世界はいろんな顔をもっていて、教科を学んでいるけれど、他のことも勉強しているのだと気付いたんです。
突然やってきた祖父との本当の別れ 空席の隣で見たオペラ
──お祖父様の存在がご自身にとって、とても大きかったんですね。
昭和63年に、祖父が亡くなったんですけれども、その直前のクリスマスプレゼントに祖父から2枚のチケットを貰いました。ソビエト連邦(編集注:現ロシア)からオペラが来日する演目がありまして、祖父がとても見たがっていたものです。この作品の良さを熱心に語っていたのに、その月の30日、祖父が他界してしまうんです。当時、僕はまだ小学生でした。
──突然、大切な存在を失われたんですね。
僕は祖父が本田技研工業を作り上げた人ということは知っていましたが、それがどういうものかよくわかっていませんでした。葬儀は社葬でした。増上寺で大きな葬儀を執り行い、祭壇には巨大なパネルに祖父らしき人が写っている。知らない人たちが次々に挨拶に来る。僕が知っている『おじいちゃん』はどこかに消えてしまったようで、一滴の涙も流れませんでした。そして年が明けて、祖父を失った僕の手の中には2枚のチケットだけが残っていました。どうしようか考えていると、母に2枚のチケットを持ってひとりで見に行きなさいと言ってくれ、僕は空席となった席の隣でひとりで座りました。
──オペラはいかがでしたか。
冷戦でなかなか来日できなかったオペラでした。見ることが叶わなかった祖父の代わりに、しっかり見なければと思いました。上演中、祖父の語っていたことが次々と浮かび、初めて祖父の死を悼んで泣きました。ようやくそこで僕は祖父の葬儀ができた気がしました。
そこから僕は祖父との思い出の劇場を回りました。僕なりのお墓参りでした。
劇作家として様々な舞台に携わる
演劇の世界を目指しロンドンへ留学
──舞台を仕事にしようといつ頃でしょうか。
そのような環境だったので、自分が武器にできるものは何かと考えたとき、僕が持っている誰にも負けないものは演劇の知識だと思いました。そして演劇を学ぶためにロンドンに留学しました。小学校の時から決まっていたような道ですかね。
──ロンドン大学を選ばれた理由はなんですか。
演劇が学べるカレッジがあったからです。
ケンブリッジ大学やオックスフォード大学にはありませんでした。ケンブリッジ大学やロンドン大学というのは大学の総称で、その中にいくつものカレッジが存在しています。日本だと日大や東海大学に近いですね。だから大学名の後に必ずカレッジがつきます。
エジンバラ大学も歴史があり、演劇が盛んなのですが、いかんせん寒すぎる。ロンドンでも北海道と同じくらいの緯度ですから、これは嫌だなと。
僕が入学したのはロンドン大学のゴールドスミス・カレッジ。
ロンドン大学には演劇が学べるカレッジが3つありました。ひとつはロイヤルフォロウェイですが、ここは東京をロンドンとしたら千葉の成田くらいの立地です。ロンドンからそんなに離れてしまっては、せっかくロンドン大学で演劇を学ぶのに、演劇を見るのも一苦労です。やはり演劇を学ぶからには、本場でたくさん見たいと考えていたので。
──ブロードウェイ文化がある、アメリカに行こうとは思わなかったんですか?
ロンドンを選んだ理由は、日本にとってイギリスは幕末から参考にしている国だと思うんですよ。演劇も日本と似ているところがあります。アメリカはシルク・ド・ソレイユのような大がかりなことがバンっとできてしまう。イギリスはやっぱり一人芝居や二人芝居などで成立させるエンターテインメントが盛んだったので「シルク・ド・ソレイユ規模は持って帰れない」と思ってイギリスを選びました。
結局、去年僕がやった仕事は日本武道館ですし、大きいこともやるようになってしまいましたけれど(笑)。
──ロンドン大学で得た知識や経験はとても大きな影響があったでしょうね。
物語を書く上で、多くの人間を自分の内側に入れる必要があります。人種のるつぼといわれるロンドンには世界中から人が集まってきますから、実にさまざまな人たちと出会うことができました。
その人たちの価値観だったり生き様だったりするものが、一番吸収できる若い時代に触れられたことが一番意味深かったかなと思います。
(2DAYに続く)
インタビュー/ライター:久世薫
藤沢文翁(ふじさわぶんおう) プロフィール:
劇作家・舞台演出家。幼少期から祖父である藤沢武夫氏の影響でオペラや演劇に親しむ。高校卒業後にイギリスへ留学。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにて演劇を学び、2005年にはロンドンで『HYPNAGOGIA』を上演。劇作家・演出家としてデビューをする。帰国後は舞台だけでなく、ゲームシナリオライターや漫画原作者など幅広いジャンルで精力的に活動している。朗読の枠を超えた『藤沢朗読劇』に取り組み、現在では音楽朗読劇創作の第一人者と言われている。
SNS等
Twitter:https://twitter.com/FujisawaBun_O
公式サイト:http://www.bun-o.com/