体感のリアルを表現!スポーツから歴史教育まで漫画で描くスゴい人!DAY1

『マラソンマン』、『POLICEMAN』、『JUMP MAN〜ふたりの大障害〜』。『マンシリーズ』とも呼ばれるこの3作で取り扱っている題材は全く異なります。これらの漫画を描いたのが井上正治さん。井上さんは、おだやかな声で「行ってみないと感じられない雰囲気まで描きたい」と話してくれました。リアルへの探求と好奇心。ベテランでありながら「あ、面白い」という読者目線も忘れない井上さんに。漫画の世界へ興味を持った頃から、今に至るまでのお話を伺いました。

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漫画家への思いが目覚めたきっかけは石ノ森章太郎先生のサイン

 ──いつ頃から漫画家になりたいと思うようになったのでしょうか。

 小さい頃から絵を描くことが好きで、漠然と「漫画家になりたい」と思っていました。しっかりした目標ではなく、子供が夢を語って「野球選手になりたい」「アイドルになりたい」というのと同じように、〇〇になりたいと職業を挙げる時くらいの感覚です。

東京にいる僕の叔母が石ノ森章太郎先生やさいとう・たかを先生と交流があり、僕が中学1年生の頃に『サイボーグ009』のサインを、兄弟3人分、もらってきてくれたんです。その時に、漠然とした「将来は漫画家」という子供の夢から、何か目覚めたような気がしました。

 

──そのサインがきっかけで漫画家になろうと決めたんですね。

 とはいえ、落描き程度でしか描いていなかったんですけどね。周りにも漫画を描くような友人がいませんでしたし。

 

 

漫研が有名な九州産業大学へ進学。芸術学部に負けたくなかった反骨心

──本格的に漫画に取り組まれるようになったのはいつでしょうか。

 九州産業大学に進学して、漫研に入った時です。大学にいた高校時代の先輩が自動車部で、ラリーに挑戦していたので、そちらの勧誘も受けていました。かなり気持ちは揺れたのですが、やっぱり漫研に入りたいと思って。

漫研って一学年に40人くらいいるんですよ。その中に、僕の学年で一番早くデビューしたMoo.念平さんがいました。彼がもう、めちゃくちゃ上手いんですよ。それまで上手い人が周りにいなかったので、刺激になりました。

漫研では、新入生はまず何ページか、漫画を描くんです。僕が描いたのが9ページの短い漫画で、これが初めて描いた漫画になりました。

 

──初めて、漫画を描いてどうでした?

 それまで、絵心がない周りの中では、上手いと言われていたんですけどね。

九州産業大学には芸術学部があるんです。僕は経済学部で「芸術学部に負けるのは悔しい」と思いながら漫画を描いていました。それで独学で漫画を勉強するようになりました。

 

──アシスタントを始められたのはいつでしょうか。

 大学2年の頃、春日光広さんから声がかかりました。春日さんの週刊連載が軌道に乗った頃です。アシスタントとして働くようになると、仕事場と大学と実家を行き来する生活になりました。

一番始めに描いたのは、板垣退助の百円札。それが週刊ヤングジャンプに掲載されたのを見た時は嬉しかったですね。

 

──落描きしかしたことがない状態で大学に入学して、2年でアシスタントが務まるほどの画力を身に着けた独学って凄いですね。

 ペンに慣れたらなんとかという感じです。脳で描くんですよね。頭の中に、きちんと浮かべば描けます。俯瞰のアングルなどは難しかったですが、ちょうど大友克洋先生のブームが来ていた頃で、ビルが壊れていたりするカットを描いたりしているうちに身になっていました。

 

──練習あるのみということなんですね。一日にどれくらい描かれていたんでしょうか。

 練習と思ってはいないんですけどね。きちんと原稿用紙に描いたわけじゃなくて、スケッチブックとかに落描き程度です。量は特に決まったわけじゃないですが、漫研の中ではたくさん描いていた方だと思います。

やっぱりアシスタントを始めて、実際に絵が雑誌に載るようになると、それまでとは絵に対しての心構えは変わりました。きっちりと描かなければと思うようになり、モノの見方が変わりました。最初の頃はよく怒られていましたからね。

アシスタントで資料集めも。記憶と調査力で研ぎ澄まされる

 ──よく怒られていたんですか?

 そうです。怒られたくないんで、なるべくきちんと描こうとしていました。当時は、今と違って写真資料集なんてあまりありませんから、見に行って覚えてこいと言われるんですよ。週刊連載の先生は忙しいですから、自分で資料素材を集めるわけにも、現地にいくこともできません。代わりに僕らが行くんです。

例えば「今回はデパートの化粧品売り場のシーンがあるから、行って見てこい」と言われたりしていました。車を描くとなると「発売されたばかりの新車がショールームにあるから、見て覚えてこい」とかね。

 

──見たものを覚えて持ち帰るんですか!?

 そうです。そういうことを数年続けていると、覚えたものは、見ないものも描けるようになっていく。資料集めの段階から勉強なんですよね。そのうち、資料を探そうと思ったら、大きな書店でこのあたりに置いてあるんじゃないかと目処をつけられるようになっていきます。必要な情報がある場所に対しての嗅覚が鋭くなってくるんです。

 

上京しデビューへ!描いたネーム1000枚以上

 ──大学卒業後は上京されたそうですが。

 26歳で『週刊少年マガジン新人漫画賞』で佳作を受賞して、28歳で上京しました。大学にちょっと長くいたんですよね。楽しくて。

東京では古いアパートを契約したんですが、これが『川合荘』という名前で。「カワイソウ」って冗談みたいでしょう。当時は、切り詰めた生活だではありましたが、生活費を稼ぐ手段としては当時は編集さんから紹介してもらったアシスタントをしていて、さらに編集部から研究費をいただいていたので、余裕は少しありました。

そして1年くらいに新雑誌(編集注:後の『ミスターマガジン』)創刊の記念イベント『MEN’ S コミック大賞』(講談社)の新人賞に応募したところ、準大賞をいただきました。ちなみに、その時の大賞は『機動戦士ガンダム サンダーボルト』を描いている太田垣康男先生です。デビューは僕の方が早くなってしまったので、太田垣先生にはアシスタントに来てもらったこともありました。

 

──デビューは『ミスターマガジン』ですよね?

 そうですね。『週刊少年マガジン』でも賞はいただいたんですが、その時は雑誌掲載がなかったんです。読み切りデビューは『ミスターマガジン』に掲載された受賞した作品で、連載デビュー作は『極楽とんぼ』です。

 

──『極楽とんぼ』は西川つかささんが原作ですよね。原作つきの漫画でデビューされることになったきっかけを伺えますか。

 オリジナル企画を『ミスターマガジン』の方に描いて出していたんですが、その時担当から、自分の企画は上に見せて返事には時間がかかるから、この原作でちょっとネームを描いてみてくれないか?と言われて。結果待ちの間にその原作のネームを描いたら、それで連載が決まりました。デビューはいい出会いとタイミングで順調にトントンと行きましたね。

『週刊少年マガジン』ではネームを何枚も描いて出してはボツを食らうという繰り返しだったんですけど。

 

──どのくらいボツになったんでしょうか。

 1000枚以上かな。そういう時に、元『週刊少年マガジン』の編集者だった新雑誌編集部の編集者から話があったんです。『週刊少年マガジン』の応募作を「俺が担当つきたかったんだよ」と声をかけてくれました。

『極楽とんぼ』が2巻で連載終了し、その後、『週刊少年マガジン』の元の担当編集者から声をかけていただきました。サッカー選手のラモス瑠偉さんの物語を新人に描かせるという企画で、やってみないかと言われて、ネームを描き、編集会議のコンペで採用されました。それがかなり評判が良かったんです。そこですぐ連載の企画を立てて『マラソンマン』の連載を始めることになりました。

 (2DAYに続く)

インタビュー:アレス  ライター:久世薫

 

井上 正治(いのうえ まさはる) プロフィール:

九州産業大学の漫画研究会に所属したことをきっかけに漫画を描き始める。1991年には『ミスターマガジン』の『極楽とんぼ』(講談社)にてデビュー。1993年には『週刊少年マガジン』(講談社)誌上で『マラソンマン』で連載をスタートする。その後、『POLICEMAN』(講談社)、『JUMP MAN〜ふたりの大障害〜』(講談社)を連載。最近では『講談社の学習まんが 日本の歴史』2〜4巻を担当。新しい分野にも果敢に挑戦している。

Twitter:https://twitter.com/inouemasahal

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