漫画原作に映画監督!やりたいを具現化して夢を叶え続けるスゴい人DAY1

漫画原作者、役者、映画監督。肩書きとこれまでの仕事の幅と量が圧倒的な市原剛さん。エンターテインメントの第一線で活躍しながら、夢を叶えてきたスゴい人。多才なその能力をもってして、いかに自分の夢を現実にしてこられたのか。これまでの半生についてお聞きしました。

 友情・努力・勝利 

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喧嘩と絵と憧れと。情熱あふれたパワー全開の子供時代

──どんな子供時代を過ごされましたか。

わがままでしたね。言うこと聞かないタイプで。三人兄弟の長男で。親父は体育教師でめちゃめちゃ厳しかった。

 

──ツッパリというか、……ワルでした?

ただのワルじゃなくて、極悪ですよ(笑)。小学校ではクラスの男子全員と喧嘩してましたね。

 

──バトルロワイヤルのような?

1人対全員。校庭に出て、全員をぶっとばしてた。そういう時っておれはボスを狙います。一番威張ってる奴をまず倒す。そうすると周りは引くんだよね。

まあ、そんなエピソードがあったおかげで、中学校に入ったら絡まれなくなりました。絡んだら面倒くさい人間と思われたんですよ。やんちゃどころじゃない。危険人物。

……って、なんでこんな話してるの。世間で言ったことないですよ(笑)。

 

──ビー・バップ・ハイスクールや千葉真一に憧れてたんですよね。

ビーバップは高校生だからもっと後です。

小学生の頃は、また違います。6年生の時に家族で旅行に行ってね。昔は100円入れて見るテレビがよくあったでしょう。それで『死亡遊戯』をたまたま見たんです。ブルース・リーをそこで知りました。ジャッキー・チェンは近所の映画館のポスターで知ったのが5年生くらいかな。カンフー映画は見てなかったです。かっこいいと思ったけど、おれ自身がやろうと思うほどじゃなかった。

実は、小学校の時は漫画家になりたかったんですよ。

 

──漫画家に!?

産まれた頃から絵が好きで、幼稚園の頃には、キカイダーや仮面ライダーの絵を描いていたんです。そして藤子不二雄A先生の『まんが道』を読んで漫画家を目指しました。それが小学校3年生くらいかな。4〜5年生くらいにはウルトラマンの同人誌作ったりしてました。

 

諦められなった夢とスタローンが見せたアメリカンドリーム

──夢が既に盛りだくさんですね。いろんな仕事に挑戦されてきていらっしゃいますが、渡辺プロに入られていますよね。

芸人になりたかったから、まずは渡辺プロでって思ったんだけど、そんないい話じゃなくて、実はアルバイトでマネージャーとして入社しました。2ヶ月でやめてしまったのですが、やっぱり映像業界で何か作りたいって夢は捨てきれなかった。

 

──やめてから漫画原作者になったのは、どんな経緯だったんでしょうか。

子供の頃から、オーディションに履歴書を出してた時期はあったんですよ。そして「今回はご希望に添えず……」と落選通知を受け取るじゃないですか。じゃあどうしたら役者になれるんだろうと考えた時、『ロッキー』の話を聞いたんです。

シルベスター・スタローンが自分の脚本を安く売るから、俺を主役にして映画を撮れと言ったエピソードを聞いて、これだ!と。

自分が話を作って、自分が監督やれば、自分がいい役できるじゃん。

アメリカンドリームじゃない、ジャパンドリームみたいなのがないかなと思いました。

 

──それを思いつかれたのは、いつ頃でしょうか?

17歳には念頭にはあって、脚本、監督、主演で自主制作映画を撮っていました。高校卒業してから映像製作の現場に弟子入りして、ドラマの助監督をやっていたのですが、その頃に自分で脚本を書いてみたくなりました。

 

脚本から漫画原作者としての道

──ではドラマの助監督をやりながら、脚本を書いて、やがて漫画原作の道に?

実はこれ初めて話しますが、おれ、社員として仕事をしたことがないんですよ。アルバイトは経験あるけれど、いわゆる就職をしたことがないんです。

助監督も作品ごとなのでつまりはアルバイトなんですよね。エキストラとか助監督とか。月給というものをもらって働いてはいなかった。実家に住んでいたのですが、祖父の具合が悪かったので、自宅警備員をしていました(笑)。親が健在だったので好きなことやらせてもらっていましたね。

で、人生の転機。25歳くらいの時に、さすがに親も怒るわけですよ。「いいかげんしっかりしろ!」と言われて。じゃあ「今月の月刊ジャンプの原作賞が受賞できなかったら諦める」と宣言しました。

 

──勝算はおありだったのでしょうか。今まで何か受賞されていたんですか?

25歳の時に一度奨励賞を受賞しました。賞金は5万円。でも漫画が雑誌掲載されたわけじゃないんです。だからあと1回だけ、挑戦させて欲しいと言ったんです。ここで受賞できなかったら、カタギになると。

そうしたら準入選したんです。もう親にも才能がないって言われていたんですが「どうだ、認められたぞ」って言えました。

応募総数315作の中の1作に選ばれたんです。準入選は50万円の賞金をいただいたのですが、借金返済に消えました。当時23歳の時に自主制作映画を撮った時の借金です。

そこから、連載を目指すようになりました。それで集英社に企画書を持ち込んだんです。週1回、2週間に1回のペースです。他の人はなかなかそこまで出さないです。今でも教え子にも「ウザがられるくらい持っていけ」と教えます。プロットくらいはそのペースでできるでしょう。

おれは出してもことごとくボツだったのですが。

 

──それだけたくさんボツになる経験もなさったと……

根性で持ち込んだたくさんの企画のうちの一つが、『ダブル・ハード』の原案に採用されたのだと思います。

当時の担当さんは今でも付き合いがあるんだけれど、なんとか俺をデビューさせてやりたいって想いもあったんでしょう。そこで「いい話があるぞ」とダンッと出されたのが、『ダブル・ハード』のコミックスでした。

『ダブルハード』の原案担当の方が多忙で外れることになって、おれに声をかけてもらったんです。

月刊ジャンプの一番の人気作でしたから、二つ返事で受けて、連載準備に入りました。これが連載のきっかけでした。

これは頑張りましたよね。ここで頑張らなきゃ、自分は一生ダメ人間のままだぞって踏ん張っていました。

 

──原作ではなく、原案協力だったのですね。

原作は今野さんだから。おれは話はいっぱい持っていたわけですよ。プロットで持ち込んだものがあるから。俺の企画書は映画のものだったんで、それを『ダブル・ハード』に置き換えたんです。今までのボツ案が『ダブル・ハード』用に書き換えられて、今野直樹先生の天才的な技でさらにおもしろくなりました。

 

──そんなコンビだったんですか。夢が叶ったんですね。

小学校3年生の時、平松伸二先生の『ドーベルマン刑事』を初めて見て、いつかジャンプに載りたい、自分の作品の本棚にJCの青いロゴのコミックスを置きたいという願いありました。その夢がついに叶ったんです。

 

インタビュー:アレス  ライター:久世薫 映像:株式会社グランツ

(明日へ続く)

市原剛監督作品最新作『龍帝外伝《第一章》DIRTY HAWK』                      
詳細は下記オフィシャルサイトにて!https://ryuteigaiden.themedia.jp/

 

◆プロフィール 市原剛(いちはら たけし)

映画・テレビドラマ助監督を経て、集英社「MJ少年漫画原作大賞」1993年度奨励賞、1994年度準入選受賞。1998年、『ダブル・ハード』(集英社)の原案協力として連載デビュー。以後、集英社をメインに日本文芸社、実業之日本社、小学館で漫画原作者として活動。2016年劇場公開の『龍帝-DRAGON EMPEROR-』で念願の長編映画監督デビューを果たす。代表作は他に『RUNNING CHASER』(集英社)、『廓ノ幻』(日本文芸社)、『龍帝』(実業之日本社)、『幕末ノ影』、『ANGEL DAGGER』、『LADY SCOOPER』(小学館)などがある。

 

 

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