今週のスゴい人は、伝説のクルマ、三菱自動車のパジェロがバカ売れした原動力となった篠塚建次郎氏。「モノづくり大国・日本」の代表ともいえる自動車業界の隆盛をソフト面で支えたラリードライバーだ。その類まれなドライビングセンスで激動の時代を走り抜けたスゴい!軌跡を追う。
令和リニューアル記念4日連続インタビュー
DAY2
人責めない、不満を言わない精神力
日刊スゴい人編集部(以下 編集部) 本日は、篠塚建次郎さんの学生時代から社会人へ、そして直面した苦しい時代を超えてパリ・ダカールラリーに出場するまでの経緯、まさに世界の篠塚建次郎が誕生するまでを深くお伝えしたいと思います。
篠塚さん (以下 敬称略) よろしくお願いします。
編集部 オイルショックは1973年でしたか。
篠塚 そう。きつかったねー。入社3年目だったかな。オイルショックもそうだし、そのあとに続いた排ガス規制で、車メーカーがマスコミに叩かれはじめて。国内のラリーはほぼ中止になり、会社も排ガス規制をクリアするための技術開発にシフトしていったりでね。ラリーどころではなくなってね。
編集部 ラリーに出られなかったブランクはどれくらいだったんですか?
篠塚 通算8年くらいかなー。きつかったよ。当時は終わりが見えなかったし、現役ばりばりのラリー選手が年単位で試合に出られないって相当な痛手だから。
編集部 年齢的にも一番経験を積みたい時期ですよね。
篠塚 そう。いろんな事考えたねー。でも積極的にラリーをやってる所もないから、ほかのメーカーに行って。とかの選択肢もなかった。社内でも少しずつ信頼を得てきて、土日もレースに出るような日々が一変したのよ。
編集部 もし仮に、ラリーを積極的にやっている会社があって、声をかけられたとしたら、そちらに移っていましたか?
篠塚 うん、声かけられて、移っていたかもしれないね。ただ3~4回は、横浜タイヤから「タイヤの開発をしたいから、出てくれない?」って言う話があって、それは出ましたよ。
編集部 それはつまり、三菱の社員のまま、ということですよね。
篠塚 そう。ちゃんと三菱に許可を得て、休暇を取ってね。
編集部 今の時代だったら、本当に考えられないですよね (笑)。言ってみれば、そこに関しては「個人活動」という扱いだったのですね。
篠塚 そう。結果はねー、世界選手権で10位くらいだったかな。
編集部 さすがの成績ですね。三菱としてはやはりラリー開催は念頭にあったのですよね?
篠塚 そうね。もちろんあったと思う。三菱パジェロは82年に発売されたんだけど、当初はそんなに売れなくてね。元々、ジープの後継車として作って、自衛隊とかで使う特殊な車だったから、月に200~300台くらいしか売れなかったのよ。
編集部 え!?そんなに少なかったんですか。一時期は泣く子も黙るパジェロでしたよね。
篠塚 そうね。当時はでも販売計画としては、月に500台売れたらいいな、っていう感じだったよ。宣伝する予算もないし、限られた予算で開発された車だったからね。だけど開発した人たちは、もっと売りたいな、ともちろん思っていて。
そんな折、「アフリカでパリ・ダカールラリーっていうのがあるらしいよ」って聞きつけてきて、「それならそこで走らせちゃおうか?」ということになった。
ところが翌年の83年になってね、日本の中にパリダカのノウハウが全くなかったから、外国人ドライバーに頼んで走ってもらうことにしたの。フランスのパジェロを販売会社に丸投げする形になった。その時は11位だったかな。それでその翌年、84年が3位で、なんと85年に優勝しちゃったの。
編集部 三菱パジェロがパリダカで遂に優勝した、記念すべき年ですね!
篠塚 だけど三菱車とはいえね、遠いアフリカで外国人が運転してるから、日本では全くニュースにならなくってね。(笑)
それで86年に、「やっぱり日本人が乗らなきゃだめだよね、誰か乗れる人いないか?」となって、「篠塚がいるじゃないか!」ということで、「走ってみないか?」って言われたわけ。でも、自分が走って来たのは短距離タイプのラリーだったから、パリダカは自分にとってはちょっと違うラリーだったのね。
編集部 陸上競技に例えると、短距離走の選手がマラソンに挑戦するような感じですか?
篠塚 そう。だけど、この際、走れるのならいいか、って。(笑)
編集部 それはまた大胆な決断ですね!
篠塚 パリダカールはどんなものか知らなかったし、とりあえず完走だけしてくればいいよ、っていう話だったから。気負いはなくて。それでスタンダードのディーゼルエンジンの車で走って、何とか完走はしたの。
編集部 長距離への初挑戦にして、しかも完走ですか?!
篠塚 そう。じゃあ次の87年はどうするか?となって。やっぱり走りたいな、と。でも、「遅い車で、しかも完走するだけじゃつまらないから、速い車で走りたい。」って言ったら、「じゃあ、速い車を準備しようか。でも日本にノウハウがないから、昨年、外国人が乗った車が埃かぶった車が置いてあるから、それを整備したら出られるんじゃないか?」って言って、本当にそれを整備して乗ったの。
編集部 そんな時代があったんですね~!
篠塚 そう。それで走ったら3位だったわけ。そしてたまたまその時、「日本も豊かになったし、スポーツをやったり、レジャーを楽しむ、っていうのがあった方が良いのではないか?」というお国の考え方もあったので、NHKがそれに従い、「日本では知られていないけれども、世界的にはとてもビッグなイベントをこれから紹介していこう!」ということになった。
編集部 それは良い流れでしたね。
篠塚 とりあえず、ツール・ド・フランスを。それからアメリカズカップ。これもアメリカ、ニュージーランド、オーストラリアなど海のある国ではすごいビッグイベントなんだけども、日本では誰も知らない。そんな状況の中、「篠塚建次郎が昨日は2位でした。」「今日はまたトップに帰り咲きました。」って20日間、毎日、NHKがずっとパリダカを取り上げてくれたから。
編集部 そういう経緯で篠塚さんの名前がパリダカと共に日本中に知れ渡ることになったのですね。
篠塚 87年に参戦して、97年に優勝したのね。この10年の間、NHKがニュースやスポーツニュース、それに「おはよう日本」などで「三菱!パジェロ!篠塚!パリダカ!」って毎日のようにずっと取り上げてくれたのが大きかったね。
編集部 NHKで企業名まで連呼するとは、異例中の異例ではないでしょうか?
篠塚 マラソンだってゼッケンは映るでしょう?顔だけ映す、なんてわけにはいかないからね。これからスポーツを紹介していく上でやむを得ないんだ、と腹をくくったんだろうね。視聴者から苦情が来ることも予測できるけれども、それは仕方ないんだ、って。
それで「パジェロ、三菱、篠塚、パリダカ」って繰り返し放送されているうちに、パジェロの売り上げが、一桁違ってきちゃったの。ひと月200~300台だったのが、2000~3000台になってきちゃった。
編集部 たったひと月で、ですか。泥だらけになっているパジェロをテレビで見るとカッコよくて、こういうふうに走ってみたい、って皆さん思い描いて購入したのでしょうね。
篠塚 だから当時の舘社長が、「他に理由が考えられない。何もしていないのに、急に一桁変わってくるなんて、パリダカしか理由は考えられない」っていうんで、ラリーのおかげで売れる、っていうことを初めて認めたじゃないかな。それを社内でも話すから、社内でもだんだん、パリダカが水戸黄門の印籠みたいになってきて、私もとてもやりやすくなった。狙ってた通りのことが起こった、っていう感じかな。
編集部 それが使命だと、ずっと思って来られたわけですからね。
篠塚 そうそう。それで翌年88年に2位になったの。だからもう優勝しかない、っていうんでさらに盛り上がってきて、車もめちゃくちゃ売れるようになって、パジェロミニもめちゃくちゃ売れて、「日産のお尻が見えた」とまで言われてた。三菱は3位メーカーだったんだけど、日産に近いところまで行った、って初めての経験をしたわけです。
編集部 篠塚さん、会社にかなりの貢献をなさいましたよね。世の中への影響は本当に大きくて、見る所、見る所、街中でパジェロが走ってるというスゴい状況でしたもの。販売する方たちも、大変助かったでしょうね。だからもう篠塚さん、会社での待遇も当然、ぐんと良くなったんでしょうね。
篠塚 それが何も変わらなかった。
編集部 え?命懸けなのに・・・ですよ?
篠塚 別に特別な給料をもらってたわけじゃないし、ボーナスも出ないし。
編集部 えー!それで続けられるとは、ものすごいモチベーションですね!
篠塚 そういう社員がいた前例がないから、ルールがなかったんだよね。会社は新しいルールを作りたがらないんで。給料は全く変わらないし、ラリーに出たら、それは海外出張扱いだし。あとは、普通ホテルに泊まると領収書もらって会社がホテル代出してくれるでしょ?でも、キャンプだから領収書も出ないし。今にして思えば、少し損したな、と思うけど。
編集部 ふふふ。私たち一般人から見ると、篠塚さんはものすごく華々しい世界で、手の届かない世界で生きてらっしゃる方だと、今の今まで思っていました。
篠塚 いや、まったく。自分の家の車、自分で買ってたからね。
編集部 え?支給されないんですか。それも驚きです…。
ところで話は変わりますが、会社での篠塚さんのリーダーシップは、パリダカでもやはり活かされていたのでしょうか?目的は同じでも会社内とはまた違う環境の中でした。
篠塚 リーダーシップというのかわからないけれど、あいつのためなら自分も一生懸命やろう、って思ってもらわないと良い結果が出ないわけだからね。まず、絶対にやってはいけないのが、悪口を言うっていうこと。それから、ミスを責めるのもダメなんですね。というのは、パリダカは20日間もあって、砂嵐の中で整備したりするわけだから、本当に悪い環境で夜中一晩中、作業してなくちゃいけないっていうこともある。なのでミスは必ずあるんですよ。だから皆で失敗しないようにミスを見つけ合って、カバーしていく、っていうチーム力の競争みたいなものなんです。ドライバーも、サーキットレースと違って、見えない所を走るわけだから、ミスして30分も動けなくなって時間をロスする、ということもいっぱいあるし、ナビゲーターもしょっちゅう道を間違える。もしそれを責めてたら喧嘩になっちゃうからね。ミスはするんだけども、その中でミスを少なくできる人が、良い成績を取る、という競技なんですよ。だから失敗を責めないのが、とても大切。
編集部 篠塚さんが、そんな極限状態の中でも、チームのためにご自分をコントロールなさると知ると、自分なんかも家庭でミスをつっついたり、責めたりできなくなります。
篠塚 私は、家ではしょっちゅう喧嘩してますよ(笑)。
編集部 あははは、そうですか。それは面白いです!ほっとしました。
取材:アレス ライター:MAYA 翻訳:Tim Wendland
◆篠塚建次郎氏 プロフィール
大田区出身 1948年生 東海大学卒
1971年 三菱自動車入社
1997年 ダカール・ラリー総合優勝 他多数
- 最新著書 『ラリーバカ一代』 (2006年、日経BP社)
- 公式HP https://shinozukakenjiro.jp/
- ファミリー経営 ペンション La VERDURA(ら・べるでゅーら)
3日目の明日は、学生インターン生との対談記事です。
現役大学生の等身大の質問に真正面から丁寧に答えて下さる篠塚さんの、優しさあふれた記事になっています。お楽しみに!