マジックと日本のお笑いを融合したコメディマジックを武器に世界で活躍するスゴい人

本日登場するのはマジシャンでもあり、お笑い芸人としても世界中から高い評価を受けているスゴい人。

従来のマジックというエンターテイメントと日本のお笑いの要素でもある「ボケとつっこみ」という伝統のスタイルをミックスし、コメディマジックというジャンルで世界中の笑いをかっさらっている。

彼はいったいどのようにして2つの違うジャンルを融合し、双方で評価を受けるような新しいエンタメの世界に漕ぎついたのか。

さあ、キャラメルマシーンSADA(サダ)さんの登場です。

人気者で目立つ存在だった子供時代

コンビ解散、失意の日々

日本よりも海外で大人気に

人気者で目立つ存在だった子供時代

山形で生まれ山形で育ちました。4つ下の妹と父母の4人家族です。
父親は東京で元銀行員をやったあと山形で酒屋の自営業をしていました。教育方針は自由でしたので勉強をしろとはそれほど言われなかったですね。

実は幼稚園の時からお笑いが好きでドリフターズに入るのを夢見ていました。
幼稚園で皆が輪になって演技をしているときも一人だけ違うひょうきんな動きをしてましたし、小学校でも一学期から三学期まで一貫して「落ち着きがない」と書かれ続けました(笑)
幼稚園時代の友達に入学した高校で偶然再会したとき、「○○幼稚園にいたよね。」と言われまして。僕は全然覚えていなくて。要はそれだけインパクトのある存在だったのだと思います。
反面家では大人しかったです。使い分けていましたね。

自分でいうのもなんですが、中学時代はモテました。校門に僕の出待ちがいました。同時に6人の女の子と付き合ったりしました。なんだか断れなくて。(笑)
器用といえば器用だったのかもしれません。卒業式はボタンが全てなくなっていましたし、その頃から自分はスターになると信じて疑わなかった。

高校は進学校だったので、受験シーズンはつまらなかったですね。(笑)
放送部に入って部室にばかり通って、勉強はほとんどしなかったです。
高校出たら、芸人になると心に決めていました。
生徒会活動をやったりして相変わらず目立つ存在でしたし、人気者では有ったと思います。

芸能の世界へ

大学受験はせず、東京で芸能事務所にはいってお笑い芸人になると親に言ったら、大反対されました。
それで1年浪人して神田外語大学へ入りました。浪人時代はさすがにこれ以上親に迷惑かけられないと思って勉強に没頭しました。苦手だった英語を猛勉強して克服したのがとても自信になりました。

大学一年の時に東京NSCの一期生になりました。品川庄司と同期でした。
地元の高校時代に一番面白かった奴とコンビを組もうと決めて彼の月謝も立て替えました。でも相手は山形から出て来なかったんです。
相方がいなくて練習もできなくて。なんだか段々いづらくなって半年で僕もやめてしまったんです。

今思えばとんねるずやダウンタウンに憧れてこだわりすぎていただけで、ピンで続けてもよかったかなと思います。
そこからは独学でお笑いを学びました。

大学4年の就職活動では、学校の先生になるという現実的な夢もあったのですが、やはりお笑いという第一の夢を捨てることはできませんでした。
ピンでコントをしながら劇場に通って人のネタをひたすらに研究しました。
誰にウケているのか、何がウケているのかをリストアップして論理的に研究しました。

運命の出会い

実は2000年に僕は吉本からデビューしたんです。銀座7丁目劇場で当時はシチュエーションコントをピンでやっていて。今でいう陣内さんのような芸風です。
半年でトップチームに入ったのですが当時ライブに出ていたのは極楽とんぼ、雨上がり決死隊、ナインティナイン、ロンドンブーツなどお笑い武将が闊歩している時代で。やっぱり相方が欲しいなって思いました。

そんな時に出会ったのがおだじです。当時相方候補数人と会っていたのですが、改札の前で待ち合わせしていたら、なんとおだじはその体のあまりの細さに改札をそのまますり抜けて出てきたんです。インパクトありすぎますよね。(笑)もうこいつだ!って(笑)ビジュアルも最高にいいしね。

2004年からコンビを組んで。浅井企画へ入りました。
大手事務所とはいえ現実は厳しくて。ライブは人気が出たりもしたのですが突き抜けた存在感というとこまではいかず、ほどなく解散の道を選んだんです。

コンビ解散、失意の日々

それから僕は外資系の銀行員になりました。
朝出社して夕方まで働いて。どこか違和感はずっと抱えながら、おだじをイメージしたネタを自然に書いている自分がいました。
100個書いたらおだじに再告白しようと決めて(笑)

そのうちの3つくらいがマジックネタだったんです。僕がマジシャンでおだじが駄目アシスタントというシチュエーションがピタッと来ましたね。

今までの活動の中で売れていく人達を沢山見てきました。レッドカーペットに出た人も沢山いました。一発芸で爆発的にブレイクする人もいれば、ピン芸人同士がコンビを組んだ瞬間にブレイクすることもありました。

売れるって何だろうって自問自答して。M-1が始まって漫才人口の分母がものすごく増えたというのも実感していたし、僕らのネタもどんどん埋もれていきました。
その時にマジックコントならまだ誰もいない、先駆者になれると気が付いたんです。

横浜のマジックバーで働いてマジックを学びながら、漫才を店でやらせてもらいました。
そこでは芸人の僕らと同じくらいマジシャンもお客さんの笑いを取っていました。そこで漫才とかマジシャンとかのジャンルにこだわる必要ないんだと気が付いたんです。

「人が楽しんで笑う」僕らが本当に欲しいのはこれだと思い出させてもらった

銀行の退職金でマジック道具を買いました。マジシャン達が使っているマジック道具を勉強して、他のお笑い芸人が簡単には真似できないものを選んで手に入れたんです。

日本よりも海外で大人気に

横浜でマジックコンテストに出たら、僕らのネタがバカ受けしたんです。韓国でアジア最大規模のコンテストでも特別賞をいただきました。世界には日本の笑いの文化であるボケとツッコミのできるマジックコンビがいない。次第にアジア各国からのオファーが舞い込むようになって。マジックキャッスルというハリウッドにある世界中のマジシャンが夢見る最高峰で4年連続オファーを受けるまでになりました。

マジックは知的ないたずらです。人を楽しませたいという僕の心を十分くすぐってくれますし、そこには国境がありません。
言語が違っても楽しめます。耳が聞こえない方にも楽しんでいただけます。僕らは今でもボランティア活動を続けています。

日本国内では笑点にも3回出演させていただきました。コメディマジシャンとしての受賞歴はおそらく他のコメディアンの追随を許していないと思います。
2013年にはIBMという世界最高峰のコンテストで80年の歴史で2組しか取ってないという特別賞を受賞しました。

その日のお客さんに何が受けるのかをその日の場面・雰囲気・客層など様々な要素を鑑みて柔軟に対応していく。もちろんネタはあるしネタ合わせも行いますが。

将来的にはラスベガスのホテルで単独ロングラン公演を持つことが目標です。
僕らのターゲットは全年齢。全世界。地球規模でのお笑いを視野にこれからも前進していきます。

 
 

◆公式WEBサイト http://www.caramelmachine.jp/

◆受賞歴
『韓国プサン国際マジックコンテストステージ部門』2010年ファイナリスト
「イタリアダンテ審査員特別賞」
『マジックマスターズオープン2010 セントラルオープントーナメント』準優勝。
『IBM世界マジックコンベンション2012』「コメディ特別賞」受賞 など多数。

◆メディア出演歴
「欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞」(日本テレビ)- 第84回(2010年5月4日放送)
「はなまるマーケット」 (2011年8月、TBS)「王様のブランチ」 (2012年2月、TBS)
「もう一度見たいのは誰だ!世界の魔術!幻術!奇術!超マジシャンズリーグ」(2012年3月、テレビ朝日)
「お笑い演芸館 4時間スペシャル」(2016年8月11日、BS朝日)
「じわじわチャップリン」(2016年8月13日、20日、テレビ東京)
「そこそこチャップリン」(2016年8月21日、テレビ東京)など多数。

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