後継ぎと決められて育った
社会勉強が足りないまま営業職に
ランニング足袋、発売!
本日登場するスゴい人は、日本の伝統的な足袋でランニングシューズを作ったスゴい人。
老舗足袋屋に生まれ、幼少期から後継ぎとして育てられた。
大学時代は極力人と会いたくないという状態になってしまったという。
その後、性格が明るくなったという留学生活とは?
足袋屋に戻ってからは足袋を真摯に学び、その後出会ったランナー・高岡氏と共にランニング足袋を開発。
足袋を新しい形に生まれ変わらせた商品は、現在半年待ちというヒット商品になっている。
曽祖父、祖父、父、職人さんのおかげで今があることに感謝していると話す本日のスゴい人。
足袋をランニングシューズに変容させる経緯はどのようなものだったのだろうか。
さあ…
きねや足袋株式会社
代表取締役 中澤 貴之様の登場です!
後継ぎと決められて育った
きねや足袋は中澤足袋有限会社として1949年に祖父が設立したのですが、曽祖父の中澤政雪が戦前の1929年から足袋作りを始めていたので、厳密に言うと私は4代目なんです。
有限会社にしてから困難に直面したそうですが、起死回生を図るために熱海の芸者さんたちに足袋を配り、口コミで中澤足袋の名前が広まったそうです。
私は幼稚園の頃から、父に「お前は経営者になる男だ!」と帝王学を常に教え込まれていました。
正直、私は押さえつけられるのが嫌な性格だったので、毎回父から言われるのが嫌で嫌で仕方がなくて。
中学3年の時、普段はあまり後継ぎについて話さなかった祖父が、亡くなる3日前に「よろしく頼むな」って言ってきたんです。
この祖父の言葉で、家を継ごう!と決意しました。
性格が明るくなった留学
幼少期からの話をすると、とにかくわんぱくで勉強嫌いな小学生でした。
中学は親に言われるがまま川越にある秀明学園に進学。
入学するまで男子校で全寮制、中高一貫教育とは知らなかったんですけどね(笑)
突然親元を離れて戸惑いもありましたが、中高の6年間の仲間との生活はかけがえのない日々でした。
6年生活を共にした中高の友達は、今も私の原動力になっています。
大学に入ると極力、人と関わりたくなくなって。
でも何か特技をつけないといけないという気持ちはありました。
人と関わりを持ちたくなかった当時、自分は日本人と合わないんじゃないか?と思って、日本人がいない土地を探し、ハルピンに留学してみました。
初めて海外の人と触れ合ったのですが、毎日のようにしつこく飲みに誘われ、半ば強制的に参加(笑)
それが楽しくなって性格も明るく変えられていったように思います。
足袋を学ぶ
1年半の留学を終えて家業に就きました。
足袋を覚えたい!と思い。
初めは袋詰めや出荷からスタート。
そして縫製作業の工程に移るのですが、ミシンの練習で雑巾を渦巻状に縫ったり、簡単な作業で作れるトートバッグ作りから始めました。
当時、伝統工芸士だった叔父がつきっきりで教えてくれました。
生地を伸して重ねて裁断、ラインの9行程に流して、最後に仕上げ。
ラインのリーダーにもたくさん協力してもらいました。
一通りの現場作業を3年、その後営業を5年やり、経営側に移りました。
社会勉強が足りないまま営業職に
社会に出たことがなかったので、自分の不甲斐なさ、仕事のできなさ、人との付き合いに随分苦労しました。
人の気持ちがわからず、空気も読めず、思ったことをすぐ口に出してしまったり(笑)
上司やお客様との距離感を覚えるまでとても時間がかかってしまいました。
父は私が家業を継ぐにもかかわらず、足袋屋は斜陽産業と言ってきたり、将来を不安視させる発言が多かったです。
でも未来を切り拓く事は私の世代の課題であり、今後を考える機会にも繋がりました。
当時は何をして良いかわからず、焦りやプレッシャーが強かったです。
ランニング足袋を作るきっかけ
裸足でフルマラソンも走る高岡尚司さんから連絡を頂いた事が全ての始まりです。
現役時代に故障が多かった高岡さんが行き着いたのは、裸足で走ること。
でも裸足で走ることが危険なこともあり、うちの地下足袋を楽天で購入して履いていたそうです。
他社のシューズも試していたけれど高価だったので、手に入りやすく、なおかつ日本人だから伝統的な履物の足袋をランニングシューズとして作って欲しい!と言われました。
高岡さんは純粋で精悍、熱い思いもあり、コンセプトがしっかりしていて、私は足袋に対しての愛情は誰よりも強い自信があり、お互いの情熱が合致。
裸足に近い足袋で走ることによって、体幹を鍛えられ、足の接地を変えることで故障を減らせる、と聞いて面白いと思っただけでなく、二人で組めば間違いない!と思ったんです。
高岡さんからお話を頂いてすぐに取り掛かったのが2012年の初めでした。
高岡さんと出会う前も足袋の可能性を広げたいと常に思っていたので、持ち込まれた企画や案件は1件も断らず100以上は受け入れてきました。
内緒で進めたプロジェクト
私と技術の人間と工場長、そして高岡さんと高岡さんの部下、この5人だけの話としてランニング足袋プロジェクトを進めました。
のちに叔父に生産管理をしてもらいましたが、やはり誰にも言わずに。
父にも内緒です。
内緒にしていたのは、自分が始めたことを途中でダメにされるのが嫌だったからです。
高岡さんは毎日、出勤前に20キロ、仕事後に25キロ走っているので試作品のフィードバックがもの凄く早くて、改善と製造スピードが間に合わないぐらいでした。
ソールは10パターンくらい、アッパーは7パターンくらい作りましたね。
発売日の前日、さすがに話さないとまずいだろうと父に話すと「面白そうだからやってみれば!」という意外な返答。
もう出来ちゃっていたのでそう言うしかなかったかもしれませんし、もしかしたら全てを知っていたかも知れません(笑)
ランニング足袋、発売!
2013年秋、ランニング足袋「きねや無敵」を発売。
足袋屋として新しい商品を出しても、売れて100足、200足。
このランニング足袋は500~600足売れました。
高岡さんのランニングイベントや講習会で直に販売したからです。
高岡さんが持っている信頼・ノウハウ・ケアのおかげですね。
東京マラソンのエキスポのブースを出したところとても好評で、日本人のみならず海外勢にも人気で、海外にも可能性を感じました。
足袋は着物の時に履くものという概念を変える、ランニングシューズとしての足袋の誕生でした。
これからの足袋
靴・靴下・スリッパなど履物にはいろんなカテゴリーがあると思うんですけど、足袋を履物の一つのカテゴリーにしたいと思っています。
足袋は中途半端な位置にあるので、今回のランニング足袋や子どもの足袋を作り、幼少期から足袋に親しみを持ってもらえるようにしたいですね。
今、行田市役所を通じ、中京大の金子先生の協力を得て小学校で足袋を履いてどんな効果が出るかを研究しています。
運動能力、身体能力、精神面、足袋を履いて生活するとどんな変化が見られるのか。
3月に研究結果が出るので楽しみです。
取材を終えて
きっと、この記事を読んで気になる一つは某ドラマのモデル?という所かと思う。
中澤社長にお聞きした所、某小説家さんが足袋で有名な行田を取材したいと話がありご縁で「きねや」さんに取材に来たと。
ここで驚く事が!「足袋でランニングシューズを作ったら面白いんじゃないか」と話をされた時、既に「きねや」さんでは密かに試作品を作り続けていたという。
まさに事実は小説より奇なり!作られるべくして作られた「無敵」。
全国の小学校で上靴の代わりに足袋が履かれる日もそう遠くはないかもしれない。
プロフィール
中澤貴之(なかざわ・たかゆき)
きねや足袋株式会社 代表取締役
http://kineyatabi.co.jp/kineya/