中国で日本の漫画文化を広めるスゴい人!

日中友好がきっかけでペンをとる!?

学校中退、連載デビュー

漫画文化交流のために

「月刊少年ジャンプ」で1987年から5年にわたって連載された『あばれ花組』という漫画をご存知だろうか。
不良漫画の金字塔的作品の一つである。
その作者が、2011年頃から中国で漫画を連載したり、若き漫画家志望者向けのセミナーを行っているという。
どのように漫画家になられたのか、漫画国際交流の草分け的な活動に入っていかれたきっかけは何なのか、お聞きしてみた。

さあ…
漫画家
押山 雄一様の登場です!

日中友好がきっかけでペンをとる!?

横須賀生まれで、幼稚園の時に引っ越して以来、ずっと葉山に住んでいます。
子どもの頃は学年誌に載っている『ドラえもん』が好きでした。
それから、母の仕事先の御宅へたまに遊びに行っていたんですが、『のらくろ』や『おそ松くん』があって、繰り返し繰り返し、行くたびに読んでいました。
趣味はプラモデルの戦車で、部屋に置き場が無くなるほど。
タンスの服を出してそこに飾っていたら、ある時母に黙って捨てられちゃって(笑)
あれが無かったら、プラモ関係の仕事に就いていたかも。
ノートに漫画を描き始めたのは小学2年生の時で、パンダが主人公でした。
その頃、日中友好でパンダが送られてきて、それがきっかけだったのかな。
友達に見せると褒められて、シリーズでギャグを何作も描きました。
絶対にストーリー漫画は描かない、と思っていたんです。
当時、どう見てもギャグは絵が簡単なのに、ストーリー漫画と原稿料が一緒だと何かで知って(笑)
学校の教科書やノートにも落書きしまくって、それは怒られましたね。
それをまた母が捨てちゃったり…ガクッときましたよね。

「ジャンプ」の洗礼

「週刊少年ジャンプ」を初めて買ったのが小学校高学年の時。
『トイレット博士』が巻頭カラーだったのを未だに覚えています。
主人公たちが運動会で帽子を取られたら負け、という競技の対策をする話で。
取られないよう針金で巻いたり工夫するんですが、最後になぜか裸になってしまう(笑)
めちゃくちゃ面白くて、大好きでしたね。
それと『アストロ球団』が印象的でした。
丁度主人公チームが出てこない回で、ライバルだけが登場しているんです。
なんで出てこないんだ、と気になって、ぐいぐい引き込まれました。
この2作品のお陰で漫画家になったと言っても過言では無いです。

「ヤンジャン」創刊、漫研設立

高校ではサッカー部に入部したんですが、2年生の時に怪我で引退せざるを得なくて、漫画研究部を設立しました。
その頃「ヤングジャンプ」が創刊された。
創刊号から買う雑誌って初めてで、運命を感じて、この雑誌でデビューしたいと決意しました。
持ち込み仲間ができて、東京まで2時間かけて通ってね。
彼は週ジャンの江口寿史先生、僕はヤンジャンの金井たつお先生のアシスタントになりたかった。
何度も持ち込んで、編集さんにアドバイスを受けて手直しするんですが、賞にかすりもしませんでした。

アシスタント? 雑用係?

高校を卒業して、金井先生のところは一杯なので、『わたしの沖田くん』の野部利雄先生のところへ行くことになりました。
作中に麻雀のシーンがあって、そこなら麻雀ができるかも、なんて考えて(笑)
1年経ったら辞めて学校に行きなさい、と先生に言われました。
それくらい見込みがないと思われていたんでしょう。
先生が仕事をしている時にコーヒーを用意したり、雑用係でしたね。
そこで先輩方の仕事を見て覚えたり、考え方、頭の中を盗む、という事を覚えました。
こういう線を引いたら、こういう絵を描いたら「違う」って声がするんです。
この人だったらこうするな、というのが徐々にわかっていって。
真似すること、上手い人の頭の中を盗むことによって技術が伸びていくんですよ。

学校中退、連載デビュー

1年経って野部プロを辞めて、デザイン系の専門学校に入ったんですが、学校で教わる事は既に現場で学んだ事ばかり。
まったくやる気が起きなくて、サボりまくっていたら野部先生から呼び戻された(笑)
復帰したら下手になった、と仲間から言われて呆然としました。
緊張感のある仕事をし続けてきた仲間の方が、画力が伸びて上手くなっていたんです。
とにかく再スタートを切り、1年ぐらいして『私立東湘高校サッカー部』で手塚賞の佳作に入賞しました。
それから3年ほどアシスタントを続けて、新しい原作で連載を起こす、というお話があって『あばれ花組』の連載が決まった。
月刊誌で、毎月だいたい60枚くらい。
年に60枚描いたことも無いのに(笑)
嬉しいという感覚はあまりなくて、落としたらヤバイとか、そんな訳のわからない感じでした。
月刊は10日くらいアシスタントさんも詰めっぱなしだし、持久戦になるんですよ。
のちに念願のヤンジャンで週刊連載も経験しましたが、5~6日くらいで終わって、1日必ず休みが取れた。
僕には月刊の方が厳しかったです。

不眠に苦しんだ初講座

2011年、とある企業絡みのお仕事をしていたんですが、震災で仕事自体が無くなってしまった。
ちょうどその時、お付き合いのある編集さんから連絡をいただいて、中国の漫画講座のお話が決まったんです。
唐突に舞い込んできたという感じでした。
2012年8月に杭州で行ったのが初の講義です。
中国の有名漫画家さんが主催する会で、数千人から選抜された40人の漫画家志望者を集めて行いました。
2週間ほど滞在して講義をしたんですが、とにかく眠れなかった。
朝まで眠気がこなくて、明け方少し浅く眠るような日々。
初めて人に教えるって事も、環境的に全く慣れていないって事もプレッシャーとしてあったのかもしれません。
それをきっかけに中国での仕事の幅が広がりました。
天津アニメーションパークに招聘を受けて講座を開催したり、漫画専門学校から招待されて武漢へ行ったりしています。

漫画文化交流のために

中国での活動としては、講座の他に漫画の連載もしています。
布卡漫画(ブッカーマンガ)では三国志もので原作を担当しました。
中国の漫画家が作画で連載していたんですが、アクシデントでストップしてしまった。
これは続きをどこかでやりたいと思っています。
現在は「中国翻漫画」で『押山式漫画教室』という漫画の描き方漫画の連載中です。
例えば、自分は集中線や効果線はこだわりを持ってやっています。
ちょっとした力の抜き方、加減は口で説明するのは難しい。
こういった技術面のことも伝えていきたい。
中国の若者は大学まで学業に専念させられ、漫画を読む、描く、遊ぶ、恋する、バイトするという人はあまりいません。
漫画家志望者も大学に入ってから描き始める人が大半です。
現地でも見られる日本のアニメの影響を受けていることが多く、絵柄や物語も偏りがちになってしまう。
毎回、まず教えることは「漫画以外の勉強をしなさい」ということ。
画力はあるのに物語が陳腐になるのは、漫画以外の経験値や知識が圧倒的に欠けているからだと思います。
彼らはとても真面目なので、自分の失敗、失恋、楽しかった事、自分だけの趣味の世界…
内面が作品に反映されてくると、すごい漫画家に成長するかもしれませんね。

取材を終えて

1972年、日中国交正常化を記念し、上野動物園にジャイアントパンダの「カンカン」と「ランラン」が来園した。
それをきっかけに漫画を描き始めた少年が、今では中国に招聘を受け、クリエイターを志す現地の若者向けに講義を行っている。
中国がコンテンツ産業育成に注力しているのは色々な角度からの見方があるだろうが、こんな風に文化交流ができていくのはとても幸せなことではないか。
日本式の漫画の描き方を身につけた中国人作家の作品が楽しみだ。

プロフィール

押山 雄一(おしやま・ゆういち)
漫画家

神奈川県出身。
1985年『私立東湘高校サッカー部』で第29回手塚賞佳作受賞。
1987年『あばれ花組』(月刊少年ジャンプ)で連載デビュー。
他、代表作に、
『TWO-TOP』(週刊ヤングジャンプ)
『野人 岡野雅行物語』(週刊ヤングジャンプ)
『龙拳演义』(布卡漫画)
など。

◆Amazon著者ページ
http://amzn.to/2CGPJUE

◆公式Twitter
https://twitter.com/oshiyanyan

◆公式ブログ
https://ameblo.jp/oshiyanyan/

◆『龙拳演义』(布卡漫画)
http://www.buka.cn/detail/217887

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