The amazing person who appears this time is a cartoonist who supported the jump golden age with the popular work "Tennis Boy".
After that, he continued to hit hits such as "Hold Up ☆ Kids" and "Omama ni Idol" which was also made into an OVA.
How did a young man who originally wanted to be a textile designer become a manga artist?
Now comes the comic artist, Kenichi Kotani!
若気の至りで東京へ
漫画の神様との邂逅
作画へのこだわり
落書きに親しんだ少年時代
京都府の宮津市生まれです。天橋立で有名な。
ウチは大工で、常日頃「物を造る職人になれ」と言われて育ちました。
祖母が絵好きな人で、遊びに行くといつも紙を用意してくれていましたので漫画っぽいイラストを書いて遊んだりしました。
当時の漫画雑誌「少年キング」に『怪物くん』とか『オバQ』とかの絵を投稿していました。
掲載されるとバッチがもらえてね。嬉しくて学校に持っていきました。
学校の先生に「漫画家になれるんじゃないか」なんて言われて、学芸会用にお話を作るよう頼まれたんです。
貧乏神の物語を作ったのですが、デキが良すぎたんでしょうか。「これは何かを書き写しただろう」と言われ、ボツになっちゃいました。
全部僕が膨らましたお話だったのに(笑)
若気の至りで東京へ
中高生の頃は漫画を時々読むくらいで、書くという事にはちょっと距離がありました。
高校生になるとバイクに夢中になって…。暴走族の走りというか。当時はノーヘルでね。
高校2年生で乗り始めて、3台目からはナナハンで。危ない遊び方もしましたね(笑)
イラストを描くのはやはりその頃も好きでしたので、デザイン関係の仕事を選び、高校卒業後に京都市内のスタジオに就職しました。
ゆくゆくはイタリアでテキスタイルデザインをしたいと思っていました。
ところが若気の至りというのでしょうか、2年目にスタジオの先生と喧嘩になってしまいまして…。「東京で修行してこい!」と、追い出されてしまった(笑)
それで親戚の清水焼職人のところで陶芸師として修行をすることになったのですが、性に合わず、「描く仕事」を求めて東京に飛び出しました。
銀座のバーテン
8万円という全財産を握りしめて東京に来たのですが、ホテル暮らしの1週間であっという間に無くなっちゃった。
仕方ないから住み込みの仕事を探して、銀座のクラブに行ったら「今日からすぐに働け!」となってバーテンをしていたのですが、そのお店には芝居をやっている人などお客さんに色々なジャンルの人達が来るんですね。
そのうち「あれ?俺は将来何をするんだ? 俺は何やってんだ?」という気持ちになってきた。
小さい頃から好きで描いていた漫画を、もう一度描いてみようと思い立ちました。
スローペースでしたが、夜は銀座で働いて仕事の後に漫画を描く生活を始めたんです。
作品ができたら持ち込みをしていたのですが、ある時『週刊少年チャンピオン』に手塚プロのアシスタント募集広告がありました。
応募したら運良く採用していただいて、手塚治虫先生の元へ行くことになったんです。
漫画の神様との邂逅
22歳で手塚プロダクションに入社したのですが、当時の手塚先生は『ブラック・ジャック』や『ブッダ』など7、8本連載を持っていらした多忙な時期。
即戦力ということで採用されたのでしょうが、周りの人はみんな上手いし、色々と覚えることばかりで不安で仕方なかった。手塚治虫先生はやはり凄かったですね。
一番驚いたのは、作品全てが同時進行で作られていくこと。
アシスタントは先生から回ってくる原稿を仕上げるのですが『ブラック・ジャック』と『ブッダ』が何枚かずつ回ってきたりしました。複数の作品を別々に考えながらストーリー作りをしていらしたんです。
しかも同時進行であるのに、当然ながら手塚先生の作品のレベルは高い。
とてもじゃないけど真似は出来ないと思いましたね。
多くのことを学ばせていただきましたが、丁度1年経つ頃、自分が目指す絵と方向性が違うかもしれないと思い始めました。
それと、社員待遇で生活は保証されていたのですが、自分はもう少し追い込まないとダメだろうと考えたんです。
そして、高橋よしひろ先生を手伝いながら、ジャンプに持ち込みの生活をはじめて。
そんな中ご縁のある編集さんが担当についてくれて、23歳で読み切り『山犬狩り』が初掲載されました。その後『テニスボーイ』の連載が決まったんです。
作画へのこだわり
キャラクターが身につける洋服や小物は適当にはしていないつもりです。個性やシーンに合うように気をつけています。
あとはやはり目とか表情ですかね。「可愛い」の感覚が古くならないよう、常に進化していなくてはと気を使っています。
究極的には「美女を描きたい」という気持ちがあります。
いわゆるアニメ絵ではないので、若い子にとってはあまり馴染みが無いのかもしれませんけど。ネームについては、自分が面白がっていることをキチンと表現できたかを考えます。
アイデアはどんどん出せるものでもないですから。
影響を受けた作家というのはあまりいないのですが、現代美術作家の会田誠さんのエロティシズムには興味があります。
一度お会いしてみたいですね。
後進へ伝えるもの
頭がシャンとしている内に、一度漫画の講師をやってみたいと思っていて。
作品も描きたいから、月一回とか、隔月とかで出来たら良いなぁ。
僕のやって来たことを、後進に伝えてみたい。
三浦みつるさんが日大の講師をやった時、最終日に見学に行ったんです。
僕も少しお話させていただいたのですが、人前で話すという経験が無いのでちょっと戸惑ったかな。ゼミみたいな少人数ならもっとできるかもしれない。
最近はそんな事を考えています。
作品について言えば、10年以上雑誌連載してきた『DESIRE』を一旦閉じ、リニューアルした『DESIRE web-season』として現在ネット連載中です。
紙でもネットでも、媒体は何でも良い。今、描くこと。発表すること。それが一番大事だと。
何だかんだ言っても作り続けて、世に送り出し続けること。それが一番大事なんじゃないかな。
◆プロフィール
手塚治虫のアシスタントを経て、1979年『テニスボーイ』(週刊少年ジャンプ)で連載デビュー。
以来、同誌にて『スキャンドール』など数々の作品を発表。
1986年『気ままにアイドル』(コミックバーガー)で青年誌にも進出。
1997年『DESIRE』(スーパージャンプ)では大人の恋愛模様を描いて人気となり、長期連載となった。
その他代表作に『ホールドアップ☆キッズ』『17ANS』など。