学業赤点、絵は満点!?
自分が楽しくなければ嘘
アニメを子どもの元へ
2016年、話題になった、ちばてつや原作の『風のように』というアニメをご存知だろうか。
1969年の読み切り短編を、クラウドファンディングも募りながら自主制作された作品だ。
その監督を務めた方が、本日登場するスゴい人。
『ドラえもん』の劇場版をはじめ、数々のテレビシリーズ等でも活躍するアニメーターが、自主制作をはじめた理由とは?
さあ…
株式会社エクラアニマル
アニメーター 本多 敏行様の登場です!
ちばてつや作品との出会い
群馬の山村で、悪ガキ仲間とやんちゃな少年時代を過ごしました。
ある時、仲間達が野火を焚いて、山火事になって大騒ぎになった。
自分にはアリバイがあるのに、普段悪さばかりしているから誰も信じない(笑)
村全体で子どもを見守っているような地域。
男ばかりの5人兄弟の次男で、家業は養蚕やタバコの栽培でした。
外で遊んだり家の手伝いで、絵は好きだったけど、あまり描いていなかった。
娯楽のない中、兄の買う「少年画報」が楽しみで。
小6の頃、ちばてつや先生の『ちかいの魔球』に出会い、ちば先生を尊敬するようになりました。
女の子に少女漫画も見せてもらいましたが、涙を誘う物語が多い中、上田トシコ先生の『フイチンさん』だけは異色で面白くて。
この頃、漫画の模写を始めました。
学業赤点、絵は満点!?
中学の頃、女の子たちの間で歌手の絵を描くのが流行っていて。
「これなら描けるな」って色々描いていたら、女の子が「上手~!」って寄ってくる。
すごく嬉しくて、沢山描きました(笑)
当時、まだ写真の技術がなく、仏間に飾る大きな絵を写真を見ながら描く、なんて事をやっていたんですが、近所で「あいつは絵が上手いから描かせてみろ」という事になった。
人に喜ばれて、お小遣いももらえて、嬉しかったですね。
山育ちで、山歩きが大好きで、高校は林業科に進みました。
山で仕事ができるなら理想的だと、将来は営林署を考えていましたが、勉強していないから、当然国家試験に落ちて(笑)
就職も決まらない自分を見かねた先生から、呼び出しを受けました。
「お前、絵が好きだったよな。東映動画から独立した先輩がいるから、紹介してやる」と。
それがシンエイ動画の前身となる、Aプロダクションを起こした楠部大吉郎さん。
地元にいらしたお父上を紹介していただきました。
その時『巨人の星』の明子姉ちゃんのセル画を下さって、学校に持って行ったら、もう大人気。
これはアニメーターになるしかないと、楠部さんのところを訪ねました。
給料はすべて飲み代に…
入社試験は星飛雄馬を7ポーズ描いた。
自分はコネなんで形だけでしたが(笑)
原画の試験は3種類で、跳び箱を跳ぶ男の子と、岩を持ち上げる女の子、『ルパン3世』の銃撃戦。
同期の青木悠三さんは天才で、あっという間にスルスル仕上げちゃった。
自分はヘタクソだったから、何か一発笑いをと、石を持ち上げる女の子が薬を飲んでムキムキになるシーンを入れた。
それを大塚康生さんが面白がってくれて、原画を描くことになりました。
池袋に下宿するんですが、田舎から出てきたから都会が楽しくて仕方ない。
給料なんて全部飲み代で無くなっちゃう。
だから暇をみては高田馬場の職業安定所に通って、力仕事に行っていました。
それも通勤電車代だけ残して、パーンと飲んじゃうんですけど(笑)
自分が楽しくなければ嘘
Aプロには大塚さん、芝山努さん、宮崎駿さん、高畑勲さんと、凄い人たちが沢山いました。
飛雄馬が燃え上がって、そこから花形の姿に繋がるシーンがあって、何度描いても大塚さんが捨てちゃう。
「もうお手上げです」と言ったら、新しい動画用紙に火をつけて「燃えるってこういうんだよ」と言われました。
『パンダコパンダ』では、宮崎さんに「目玉焼きを作る時の油のハネ方が違う」と言われて、実際に何度も目玉焼きを作ってみたり。
昔はそういう教わり方でしたね。
当時は放映したらお終いなので、スタッフ皆んな、似顔絵を入れたり、楽しんでいた。
余裕というか、ユーモアがあった。
特に作画監督の大塚さんと芝山さんはイタズラ好き。
芝山さんを困らせてやろうと『ど根性ガエル』のピョン吉の替わりにガマガエルを描いたら、芝山さんからもっとリアルなカエルが返ってきたりね。
ルパンと『天才バカボン』をやっていた時、ルパンと次元が金庫を開けるシーンがバカボンの芝山さんのところに回ってしまった。
するとルパンと次元がバカボンとパパに直されて戻ってきて、ルパンの大塚さんもOKだって(笑)
さすがに放送されなかったですが(笑)
独立、ドラえもん、スピルバーグ
Aプロが解散、シンエイ動画になり、先輩たちは独立していかれました。
作画監督が誰も居ないから自分がやる事になって、丁度『ドラえもん のび太の恐竜』の仕事が決まったんです。
それから『怪物くん』『プロゴルファー猿』とやって、社員も大勢に増えて。
いつまでも自分達がいたら、つっかえてしまって後進が育たないのではないかと。
移転を決めていたシンエイ動画の建物を引き継ぐ形で、仲間たち7人であにまる屋を設立しました。
80年代半ば頃、ワーナーやディズニーの仕事に携わります。
他にも香港で『老夫子』という漫画のアニメ化に携わったり、台湾で作画を教えたり、海外に目を向け始めた頃。
スピルバーグ監督のアニメ『Freakazoid!』ではオープニングを作りました。
その後、ディズニーの仕事を中心にやっていた社員たちが独立していく。
同時期、アニメが影響したとされる犯罪報道を耳にするようになり、「自分たちの作っているものは何かの役に立っているんだろうか」と悩みました。
アニメを子どもの元へ
「アニメは本来、子供のものであるはずだ」という頭もあり、社号をエクラアニマルとし、子ども向けアニメの自主制作に着手します。
加古里子先生の『だるまちゃん』をやらせてもらって、次は上田トシコ先生の『フイチンさん』。
作った後に、上映する所が無いと気づいた(笑)
日本全国どこにでも行きます、と無料出張上映会を掲げました。
初めは地元の保育園を回って、東京中から、福井、鳥取、岡山と、どんどん地方からも招かれるようになり、五島列島へ行った時には島中で歓待を受けました。
アニメに対する考え方は、エクラアニマルを立ち上げた時から変わらない。
子どもへの教育で大事なのは「自分のことより先に、他人のことを考えなさい」ということ。
この頃、何とかファーストって言葉をよく聞きますが、これには我慢できないですね。
「ありがとう」「どういたしまして」と、こういう関係が良い。
「どういたしまして」と言うには「ありがとう」と言われなきゃならない。
こういう精神を育みたい。
最近ご縁があって、ちば先生とシリア駐日大使をお引き合わせしました。
「日本の凛とした少年の姿を描いたこの作品を、ぜひ戦禍の中の子供たちに見せてほしい」との先生の思いを叶えたい。
大使からも現地での上映会のお誘いを受けました。
さあ、これから世界中の子どもにエクラアニマルのアニメを届けますよ!
取材を終えて
終始笑顔で、ギャグ満載でお話しされていた本多さん。
実は今夏、クモ膜下出血で倒れられて復帰されたばかりだ。
「パタッと死んだら、それでお終い。自分がどう生きるかが全て。そんな事を考えました」
『風のように』で描かれたのは、御自身の出身地、群馬県沼田市だったという。
「人々が助け合いながら生きる社会は、ちょっと前には日本中どこにでも見られた。今の子ども達へ伝えるべきものがあるはず」と語ってくれた。
本多さんをはじめ、同社スタッフは全国の幼稚園・保育園などへ「出張無料上映会」を行っている(現在は業務多忙につき休止中)。
また、地域のゴミ拾いなど、市民活動にも積極的に参加している。
「子どもが喜んでくれればそれでいいんです」と語る本多さんに、子どもに夢を与えるアニメを今後も描いていっていただきたい。
プロフィール
本多敏行(ほんだ・としゆき)
アニメーター
1950年生まれ。群馬県沼田市出身。
アニメーション企画制作会社、有限会社あにまる屋(現:株式会社エクラアニマル)設立メンバー。
『ドラえもん』の記念すべき初映画作品『ドラえもん のび太の恐竜』、『怪物くん』の立ち上げ、初めての高年齢向け作品『プロゴルファー猿』テレビスペシャル版など、藤子アニメの新しいチャレンジに常に抜擢されてきたアニメーター。
2016年クラウドファンディングで話題を呼んだ、『風のように』(ちばてつや原作)を劇場アニメーションとして現代に蘇らせる企画では、企画、監督、絵コンテ・演出を務めた。
◆ちばてつや『風のように』劇場アニメーション制作プロジェクト
https://fundiy.jp/project/animekazenoyouni
◆株式会社エクラアニマル
http://www.anime.or.jp/index.html
◆エクラアニマルSHOP
http://ekuraanimal.theshop.jp/
◆エクラアニマルオリジナルLINEスタンプ「キャラ丸くんとドク丸くん」
https://store.line.me/stickershop/product/1122601/ja
◆エクラアニマルのフラフラ蟻(ラジオ番組)
http://842fm.west-tokyo.co.jp/
◆ちばてつや『風のように』劇場アニメーション制作プロジェクト(ファンド達成済み)
https://fundiy.jp/project/animekazenoyouni