ハングリーだった子ども時代
編集への憧れをもち学研へ入社
新しいブームを仕掛ける嗅覚と手腕
1980年代のアイドルブームをご存知だろうか。
キラキラと輝く若いアイドルが次々とデビューし、歌手や女優として活躍した時代。
この時代に「BOMB!」はポップカルチャーの発信基地となり、そこからさらに新しい流行を生み出した。
今の日本が誇るポップカルチャーの源泉と言っても良いだろう。
そのアイドルブームを時代のど真ん中で支えたのが本日登場のスゴい人。
会社員だった彼は如何にしてアイドル文化に携わり、一大ムーブメントを起こしたのか。
さあ…
株式会社学研ホールディングス 顧問
安威 誠様の登場です!
ハングリーな子ども時代
僕の子ども時代はまだまだ戦後の匂いが色濃く残っていた頃で、今では考えられないくらい食糧事情も整っていませんでした。
小学校の時はお腹いっぱい食べたいという思いがいつもあったし、バナナは病気の時だけに食べられる高級品でした。
おとなしくて、痩せていて、ハングリーな男の子でした。
剣道との出会い
「強くなりたい」という思いがあって中学校では柔道かラグビーをやりたかったのですが、残念ながら部活がなくて。
東京オリンピック直後の影響で人気のあったバレーボール部に入部しました。
新人戦で3位入賞という快挙を遂げて、チームプレーの楽しさを学びました。
高校では,剣道部に入部しました。
体格差をカバーできる格闘技だったからです。
毎日の稽古は本当に厳しかったのですが「勝って反省、負けて感謝」という一見地味ですが本筋をついた基本精神にハマりまして、大学まで続けました。
社会人になりやめていましたが、なんと30年後に再開しました。
私にとって剣道は生涯スポーツとしての出会いでしたね。
編集への憧れをもち学研へ入社
大学卒業後は株式会社学習研究社(学研)へ入社しました。
編集希望だったにもかかわらず配属は営業部門で、配属先は福岡県。
本屋さんを回って学研の中一コースの注文をもらったり、高校を回って教科書、辞書の一括採用をお願いして回る仕事。
僕が担当していたのはライバル社がかなりシェアを占めていた福岡県南と佐賀県。
僕はそんなことも知らず、若さゆえにただひたすら書店回りをして営業活動しました。
何度も門前払いされたり、名刺を受け取ってもらえなかったり…。
書店さんの立場を理解して行動できるようになり、やっと学研シンパになってもらえました。
皮肉なことに2年の営業期間が終わって、新人らしからぬ営業成績がゆえに編集部に戻れない。
「営業に希望変更せい」と強く迫られたことはいい思い出です(笑)
憧れの編集部へ
当時配属されたのは「高校コース」の編集部でした。
学研の花形編集部署です。
分厚い雑誌で、進学や学習にまつわる情報の他、読者コラム、芸能などのページもありました。
当時の中高生のバイブル的な雑誌でした。
記事の最初に読んでもらうための「リード」と呼ばれる短文を何度も何度も書き直しさせられて、最初に仕えた鬼編集長から文章力を鍛え上げられました。
たった4~5行の編集後記が初めて載った時には嬉しくて嬉しくて…その晩はその号を抱いて寝たぐらいです。
例えば「お手紙待っています」なんて一行を最後に入れたら、全国の読者の方が反応してくれる。
見ず知らずの子からお手紙をいただいたりするわけです。
確実に届いているな、読んでもらっているなという実感があって、感動しました。
編集って面白いなと、すごい仕事だな、やりがいがあるなと感じました。
当たり前の日々でふと気がついた看板の現実
ところがそんな日々の中で次第に気がついたことがあって。
「学研の安威です」といえば一度も会ったことのない有名な大学の教授であってもきちんと原稿が上がってくるわけです。
まさに学研の金看板が成せる技であって、「安威」という僕自身の実力でできているものではないなと。
ちょうどその頃に誘われたのが学研の中でできたばかりの1979年創刊、読者投稿「BOMB!」編集部。
当時編集長の横山氏に「人生はプロセスだよ。出来上がった世界ではなく、新しい世界を作っていく仕事をしないか」と誘われて。
当時花形のコース編集部からは「かわいそうに」といった目で見送られながら異動しました。
背水の陣だった「BOMB!」編集部
驚いたことに、「BOMB!」は2万部を切ったら廃刊という危機的状況下にあるという現実でした。
さだまさしや水谷豊、武田鉄矢という流行りのタレント特集を組みました。
海援隊武道館コンサートでは編集部員が皆で手売りまでして危機脱出。
ちょうどその頃、山口百恵や石野真子の引退などのタイミングに合わせて、女性アイドルの巻頭特集へとシフトチェンジ。
その頃から今に続くアイドル雑誌という路線を歩み始めました。
当時編集部には編集長を除くと社員は私だけだったので、原稿を書くのはもちろんのこと、カメラマン兼スタイリスト兼レイアウト担当もこなすことがありました(笑)
連日の残業、泊まり込み、土日出勤は当たり前。否応もなく様々な経験を積みましたし、ここでの経験が僕のその後を支えるかけがえのない実力となりました。いざとなればひとりでもやり遂げるという自信になりました。
覚悟の交渉術で誰もが成し得なかった企画を実現
中森明菜さんのご実家にお伺いした際には、お母様が手料理をいっぱい準備されており、無理にお腹いっぱい食べてから子ども時代の取材させていただいたことも思い出です。
その後、各社が中森明菜の初水着写真を撮ろうとやっきになっていました。
僕も根気強く交渉しました。
案の定、水着は拒否されたのですが「じゃ、レオタードは?」と提案。
「うーん」と逡巡する明菜さんにダメ押しの一言、「僕も一緒に着るから」と(笑)
さすがの明菜さんもびっくり。
「安威さんがレオタード着るの?」と言うので、「明菜が着るなら僕も着るよ。その覚悟があるよ」と伝えたら、しばらく考え込んで「わかった、着るよ」と。
その号は40万部発行、98%完売しました。
1985年2月号。
今でも伝説の号です。
新しいカルチャーを生むきっかけとなった様々な斬新な試み
当時読者やファンの間で、アイドルの生写真交換という情報がありました。
「BOMB!アイドルフォトパック」というのを企画しました。
カセットケースに生写真10枚とミニ版「BOMB」が入っている。
提案が通るまで会社に理解してもらうのに困難を極めました。
学研史上、出版史上、そんな商品はなかったからです。
これは社内での前予想に反して爆発的なヒットとなり、結果的に社長賞をいただいたことはその後の社員人生に大きな影響を及ぼしました。
学研という企業のために粉骨砕身
バブル崩壊、出版不況で学研が経営的に厳しかった時期(90年代後半)、異例の経営企画室長へ抜擢されました。
当時、芸能誌、CDROMマガジンから学研の伝統「学習と科学」編集部へ異動。
2000年「大人の科学」等の企画をヒットさせていた頃です。
経営企画室なんて予想だにしない、ましてや責任者です。
信じられませんでしたが、社長から口説かれて承知。45歳の夏でした。
中長期的な社内組織改革をするために中期経営計画を提案し、約80名の管理職を巻き込んで「ステアリングコミッティ」なるタスクチームを作り実行。
社員の意識改革を促す流れを作り、大規模な構造改革を実現。
結果、会社のダイエットは成功し、V字回復を果たし会社の再生につなげることができました。
この時期は辞表を胸に抱きながらの苦しい経験をしました。
NHK特集になるくらいのドラマチックな出来事と評価されたものです。
3年後には、新規事業への挑戦を任されました。
雑誌とウェブのコラボIT事業室という部署です。
53歳の時には学研でまたまた新しい部署の責任者。
会社のシンクタンク「学研教育総合研究所」の創設と初代所長です。
現在の僕に繋がる職責で、子どもたちの将来を考え、教育を柱にすえる研究を目的にしています。
大げさに言えば日本の未来を作る人材養成の支援事業です。
10年以上経た現在でも、同じ思いです。
人は生まれながらにして、多彩で多才である。
すべての人の才能を発見し、開花し、伸張できるような教育の仕組みを作り出し、社会をより良くしたいと考えています。
取材を終えて・・・
とてもおしゃれなお召し物で頭にはシルバーの中折れ帽。
バブル時代に数々のアイドルを世に送り出し、伝説のヒットマンと聞いていたイメージとは違って終始温和な口調でいらっしゃいました。
限られた文字数の中では頂いたお話のほんの一部しか掲載出来ないほどの、ミラクルな人生の出来事。
一冊の本にまとめられるほどの分厚い人生を生きてこられたのだと、実感いたしました。
プロフィール
元㈱学研 BOMB編集長 Momoco編集長 菊池桃子、西村知美、酒井法子などを発掘。
学研教育総研初代所長フェローを経て
現 株式会社 学研ホールディングス 顧問
公益財団法人 才能開発教育研究財団 常務理事
◆公益財団法人 才能開発教育研究財団
http://www.sainou.or.jp/#rinen
座右の銘
「一所懸命」。「一生懸命」ではなく、一つの所でがんばるということ。若い頃、自分の思いに反して、意外な仕事や場所や立場でやらざるを得ないことがあると思います。そんな時、その時にしかできない運命と思い目いっぱいその仕事や立場をくさらず懸命にやってみることです。そうするとそれまで見えてなかった新たな視野が広がります。そして必ず次の運命に繋がるのです。その連続が人生となります。