とにかく「自分でやってみよう」
『テトリス』の衝撃、『ぷよぷよ』の誕生
クリエイターに引退は無い
『ぷよぷよ』をご存知だろうか。90年代に大流行したゲームである。
『テトリス』をはじめとする、いわゆる「落ち物パズルゲーム(落ちゲー)」と呼ばれるジャンルで、累計販売数1000万本を記録し、空前の大ブームを巻き起こした。
今回登場するのは、このゲームを作ったスゴい人。
なんと、2度の倒産を経て、新しく開発したゲームを看板に、3度目の起業を果たしたという。
一世を風靡した後、何が起こったのか?
何度でも立ち上がるバイタリティはどこから生まれてくるのか?
さあ…
ゲームクリエイター
コンパイル○株式会社 代表取締役
仁井谷 正充様の登場です!
きかんぼうだった子ども時代
幼稚園に上がる前くらいの記憶ですが、数人を相手に1人で喧嘩に勝った記憶があります。
一匹狼で、一言で言えばきかんぼう。
母が気骨のある人で、子どもの頃、男の子を何人も従えているようなガキ大将だったみたいで。
そういう気質を受け継いだのかもしれません。
私は「赤ちゃん言葉」を一切喋らなかったらしいです。
キチンと大人が喋る正しい言葉を使いたい、という意識があったのかな。幼稚園児が近所のおじさんを議論で負かしてしまったり(笑)
小5の時に知能指数を測るテストを受けたんですが、「2000人に1人位のレベル」と聞かされました。
当時、実家が貸本屋を営んでいたので、メジャーな作品はもちろん、目の前にある少女漫画も含めて、ほとんど読んでいましたね。
漫画家になりたい、なんて考えていました。
とにかく「自分でやってみよう」
中学、高校では、そうした気質も鳴りをひそめて、勉強に一生懸命な優等生。
兄貴と一緒にギターを買って、毎日ギターを弾いたりもしていましたが。
理数系が得意だったので、研究者になりたいと思って、地元の国立大学に入りました。
ですが、当時はいわゆる「学生運動」が盛んな時期で、当然のように私も参戦。また、私塾を開きましたが、大学は単位が取れそうもなく中退。
その後、広島電鉄で働きましたが、「三里塚闘争」で逮捕されてしまい、退社しました。興味の赴くまま仕事をしていましたね。
その頃、世界初の個人向けのパーソナルコンピューターと言える、「Apple II」を手に入れました。
英語の解説書を見ながらゲームを作ったり、完全に趣味の世界。
そこへマイコンブームがやってきました。
と言っても、素人しかいないんですね。
PCショップが広島にもできたんですが、私の方が詳しい訳です(笑)
知り合いの友人が社長をしていたので、お願いして、ショップの販売員になりました。
しかし、ハードを売るだけではつまらない、ソフトを作りたい、という気持ちが抑えられなくなって。
「(会社)でも(やる)しか(ない)」かという、「でもしか」で「コンパイル」を設立しました。
私たちの世代の特徴かもしれませんが、とにかくやってみよう、という意識でしたね。
ゲーム業界の荒波へ
起業して1年目はゲームの仕事もなく、資金繰りも大変な状況で。
そうしたら、仲間が仕事を紹介してくれたんです。
「MSX」というPCのゲームと、SEGAが新しくコンシューマー機を出すので、ゲームを作りませんかって話で。
最初はプログラムから何から全部1人でやって、 365日24時間会社にいましたね。
人真似でアレンジしてオリジナルのような顔をしていたんですけど、だんだん分かってきて(笑)
『ZANAC』というシューティングゲームは、世界トータルで100万本売れました。
徐々に会社も大きくなってきて、一つの挑戦をしました。
『ディスクステーション』という、フロッピーディスクを媒体とした雑誌を創刊したんです。
恐らく、そういった形態のメディアは世界初だったんじゃないかな。
その中で、様々な作品が生まれていきました。
『テトリス』の衝撃、『ぷよぷよ』の誕生
ゲーム産業が円熟していく中、ほとんどのゲームが肥大化して難しくなり、開発者もコストも増えていく流れでした。
そんな中、彗星のように現れた『テトリス』が4000万本売れた。
あれは、作業的には「普通のプログラマーが、長くても1か月で作れる」ゲームなんです。
私だけでなく、ゲーム業界に激震が走ったと思います。
じゃあ、一丁、ウチもチャレンジしてみよう!と。
『ディスクステーション』で育っていた、『魔導物語』というゲームのキャラをキャスティングして、『ぷよぷよ』が生まれました。
よく言っているのですが、『テトリス』が「第1世代」なら、『ぷよぷよ』は「第2世代」。
「スーパーファミコン」の登場と相まって、『ぷよぷよ』は年間出荷本数が180万を超える、空前の大ヒット作となりました。
その頃は月収1千万円くらい。
私自身も名物社長として様々なメディアに取り上げられ、会社の業績は右肩上がりでした。
2度の倒産!!
ウォルト・ディズニーへの憧れがあって、「ランド」の構想をたてた。
アニメがあってのディズニーランドのように、ゲームがあってのぷよぷよランド。
そんな壮大な夢をぶち上げたんです。
行政側との話も済んで、建設開始手前まで進んでいた。
そのために人を雇って、100名足らずから400名ぐらいまで急増員しました。
しかし、本業のゲームは『ぷよぷよ』以降、思うようにヒットしない。
そうこうしている間に、運転資金がショートして、最初の倒産を迎えました。
その後も再建しようと動いたのですがうまくいかず、2度目の倒産。
私も50代前半で自己破産しました。
その後は専門学校の講師や警備のアルバイトで食べていました。
全く悲壮感などは無かったんですが。
私のモットーとして、「流れの中で生きている」というのがありまして。
まぁ、こんなもんかなぁと、すぐ納得するんですね。
クリエイターに引退は無い
ただ、ゲーム開発は続けていました。
『ぷよぷよ』は、スーパーファミコンで200万本売れましたが、次作『ぷよぷよ通』は100万本だった。
「この差はなんなのか」という問いをゲーム開発者として解くのが私の宿題なんです。
コツコツ作った新作ゲーム『にょきにょき』β版の評判が良く、それなら商品化してみようと。
3度目の起業ですが、「コンパイル○」を立ち上げました。
さっきの世代の話に戻りますが、『にょきにょき』は第3世代。
現在のハードNintendo Switchにはぴったりだと思っています。
これを、オリンピックの正式競技にしたいし、囲碁将棋と同じ位置にもっていきたい。
囲碁将棋と同じように、ハンデがつけられるシステムなんです。
碁会所のようなものを作って、誰でも対等に遊べる仕組みを作っていきたい。
いつも、失敗するイメージはない。
「成功するまで繰り返すので,失敗という言葉がない」ということ。
失敗を反芻して考えて、成功するまでやればいいんです。
『ぷよぷよ』についても、売れる確信があった。
『にょきにょき』はもっとヒットするはずです。
60代も後半を迎えましたが、クリエイターに引退は無いと思っているんです。
取材を終えて・・・
『ぷよぷよ』という自らが生み出したコンテンツで、一時代を築きあげた。
メディアにも取り上げられるような時代の寵児となるも、倒産。
アルバイト生活を経て、ゲーム業界への帰還を果たす。
「ダメな時はダメなんで、バイトでもしてさ、ゲームは作ってたのよ」
という、飄々としたお言葉に、いたく感銘を受けた。
常人なら挫折と考えるところだが、「まぁ、流れで」で済ますタフさは見習いたい。
逆境の中でもゲーム作りへの情熱を燃やし続け、自信作を生み出した。
仁井谷社長の新しい挑戦を見守りたい。
プロフィール
仁井谷正充(にいたに・まさみつ)
実業家、ゲームクリエイター。
『ぷよぷよ』を開発したコンパイル創業者で代表取締役社長、アイキ代表取締役社長を歴任した。
1950年生まれ、広島県出身。
大学時代は学生運動に没頭。
学習塾の経営や広島電鉄の車掌など職を転々したのち、1982年、広島市南区京橋町にコンパイルを設立。
パソコンのシステムソフトの開発を始める。
二年目にセガのOEMの仕事を得て、ゲームソフト「ルナーボール」などヒット作を連発した。
1991年、『ぷよぷよ』が後に爆発的ヒット。
自らイベントやメディアへたびたび露出、話題を呼び、業界の名物社長として、一躍有名人に。
その後、二度の倒産を迎え、専門学校の講師や、警備のアルバイトで生計を立てながら、「ニンテンドー3DS」用のゲームソフト『にょきにょき たびだち編』を開発。
2016年、同作を発売するための法人として「コンパイル○」を設立、代表取締役社長に就任。
現在、同作の「Nintedo Switch」版『にょきにょき 宇宙征服編』を開発中。
クラウドファンディングを行っている。
◆コンパイル○公式
https://www.compile-o.com/
◆公式twitter
https://twitter.com/mooniitani
◆『にょきにょき 宇宙征服編』開発クラウドファンディング
仁井谷社長、命を燃やしてぷよぷよを超える!プロジェクト!!
https://camp-fire.jp/projects/view/13929