“おかしいくらい”のモノへのこだわり
人の3倍やると決めた3年間
やっとチャンスを掴んだ矢先、大ピンチが訪れる
今、グラデーションカラーを特色とした革製品で国内外から人気を博しているブランド“YUHAKU”
ヨーロッパの製品で見られるグラデーションのついた靴などの革製品は下地のみを染色し、その後に色のついたクリームを塗って仕上げる方法が主流で色落ちはつきものだと思われていましたが、彼が独自に開発した技術は100%染料でグラデーション染めを仕上げるという全く新しい手法で、なんとヨーロッパのトップメゾンもその技術を聞きに来たと言います。
実は、彼は染色も革製品製作も誰にも教わっていませんでした。
どのようにして世界が注目する新技術が生まれたのでしょうか。
さあ…
株式会社ユハク
代表取締役
仲垣 友博様の登場です!
“おかしいくらい”のモノへのこだわり
父方の祖父は着物に家紋を描く仕事と、金属加工をしていました。
母方の祖父は大工で、モノを作る、直すというのは幼い頃から当たり前のことでした。
こうした環境のせいか、小学校低学年くらいから、おかしいくらい、形や素材など物へのこだわりが強かったんです。
傘の柄(え)一つにもこだわりがあって、高かったけど本当にほしい傘を買ってもらったのに、1週間で盗まれてしまって。
必死に探したけれど見つからず、同じものも売っていなくて、業を煮やした両親が似通った別の傘を買ってきたけれど、「こんなもの使えるかー!」ってバキっと折ってしまいました。
高校時代、モノづくり熱が再燃!
中学時代は部活も途中で辞めてしまい、高校は勉強も運動も普通の学校に進学。
でも、高校の同級生にすごくファッションが好きでバイトでお金を貯めて都内まで服を買いに行くような子がいて、彼の影響でモノづくり熱が再燃しました。
彼に大学どこに行くの?と聞くと「僕は美大だよ」と即答。
それまではしたい事もさっぱりわからなかったけど、彼のお陰で作るという方向に目覚めました。
僕は美術の勉強はしていなかったので、建築系の大学に進学。
でもやりたい事ではないのでついて行けず、独学で美術の勉強をして美大を受け直しました。結果は実技合格、筆記不合格。
このまま大学に行っていても中途半端なので辞め、自分で絵を描きながらバイトをする生活を始めました。
アルバイトで出会った“革”の世界へ…
バイトは興味のあったアパレル業界へ。
ブランドだとそこの服しか着られなくなるので、靴屋なら何を着てもOKだという安易な発想で、靴屋で働き始めました。
半年ほど経ち、「絵を描いているんだったら靴もデザインしてみたら?」と言われてデザインすると、大ヒット。
デコラティブな革靴やしわ加工の革靴など、次々ヒットを生み出して、他の有名ブランドも真似するほどになりました。
厳しかった経営状況を救ったのがその靴だったと、退職時に聞かされましたね。僕はアルバイトだったからボーナスももらっていないんですけど(笑)
ただ、他の会社だったら「そんなのウケるわけないでしょ」と言われるようなものを、「面白いと思ったものは全部やろうぜ」という社長だったので、そのお陰で色々なことができたと思っています。
この時、革屋さんから売り物にならない革をもらったのをきっかけに、メッセンジャーバッグのようなものを自分で作ったのが、最初の革作品でした。
人の3倍やると決めた3年間
独立のきっかけは同じ会社にいた友達が「どうしても俺はバイクを作りたいんだ!」と言ったこと。
自分も「何か作りたいな」と思った時に、革なら多分できるはずだと思い、二人で倉庫を借りて、1階でバイク、2階で革小物製作を始めました。
1年経つと彼が先に独立して、自分はいずれと思っていたけど、「独立してみなきゃわかんない事もある、できるならしたら?」みたいに言われてカチンときて、「するよ」って。
ただ、会社を辞めさせてもらえなくて引継ぎに1年近くかかりました。
その間に自分でホームページを立ち上げて、完全フルオーダーで靴も鞄も財布も受け付けていたら、意外に注文がありました。
一人で次々注文してくれるお客様がいて、全部お任せで「面白いのつくって」とオーダーしてくれて、他で絶対に作っていないものばかり作りました。
それなりに注文が来るようになり、バイトしながら何とか食べていけるかなと思い、2006年29歳で独立。
知り合いに「独立しました」と連絡したら、たまたま昔の友人でステージ衣装を扱っている会社に勤めている人がいて仕事が舞い込んできたり、映画の衣装の仕事をいただいたり。
「できます」と言ったものの作ったこともなく、時間もなくて、ものすごいプレッシャーで泣きそうになりながら作りました。
独立してから3年間は、毎日2~3時間しか寝ていなかったですね。
人の倍やれば何とか追いつけるかな、もしかしたら3倍くらい働けばちょっと追い越せるかもしれないと思い、3年間は自分の中で修業と位置づけし、やりきろうと決めていました。
チャンスを掴んだ矢先、大ピンチが…
最初から自分でブランドを作りたいと思っていたので、3年間で貯めた作品を海外と日本で展示会に出しました。
海外の展示会ではすごく反応が良かったものの、値段が高くて無理だと言われてしまったのですが、日本に戻って展示会をしたときに、伊勢丹さんから声がかかりました。
同時にFIVEFOXesさんから受注会の話を受け、「売れるわけがない」と思っていたのに、10万円する鞄が100個も売れたのです。
それから一年間の独占契約が決まり、「ようやく掴んだ!」と思いました。
しかし、人を増やして機械も買った矢先に東日本大震災が起きました。商品展開が始まって3か月目でした。
一気に消費が固まってしまい、高い商品は生産しない方向に先方の判断が下りました。
何とかしようと思い、一か月後の展示会になんとか入れてもらえたので、一か月間とにかく作品作りをしました。
再起を賭け、銀行からもお金を借りて、これが最後のチャンスという気持ちで取り組むと…この展示会でほぼすべての百貨店との契約が決まりました。
誰にも教わらなかったからこそ生まれた技術
ある時、ヨーロッパのトップメゾンが染め方を聞きにやってきました。
もともと売っている革で自分の欲しい色がなかったんですよ。
気に入るものが無いなら自分で作っちゃおうと染めたのですが、最初は全然うまくいきませんでした。
ムラになる、色は出ない、やればやるほど汚くなる。なんて難しいんだと思いました。
どうしたら良いかと考え、グラデーションを作ったらいいんじゃないか?って。
もともと絵を描いていたのを活かして、絵の技術を応用し染めました。
最初はごまかしでした。でも、出来上がってみたら「やりたかったのはこれだ!」ってなったんです。
誰かに教わっていたら、従来のやり方をしていたと思うので、誰にも聞かずにやっていて大正解でした。
日本中、そして世界へ
2013年、長年温めていたECサイトでの販売を始めました。
実はその頃、一度は店頭に並んだものの認知度がないので思うように売れず、会社の状況は厳しくなっていたのですが、百貨店での販売実績の信頼感と商品の幅をもってECサイトを始めると、革製品ECサイトは月間200万円が最初の壁と言われていたところを3か月で突破し、順調に伸びていきました。
今後は直営店も積極的に展開し、より多くのお客様に直接商品を届けていきたいと思っています。
取材を終えて・・・
仲垣さんと知り合ったのは、あるファッションショーの打ち上げ会場でした。
革製品には興味があったので、家に帰って早速サイトを拝見すると、革の色合いの美しさに魅了されてしまいました。
欲しい製品があるからチェックするのではなく、この革を使った製品で欲しいものが出てこないかという見方です。
使い勝手の良いパスケースを発見し、出来上がりの連絡を頂いて取りに行き、ゆっくりとお話を聞くと、なんと自分がいつかは履きたいと思っていた世界的に有名な靴ブランドの職人が染色技術を聞きに来たというのです!
一流ブランドの中には日本の技術を上手く取り入れ、展開している企業も少なくありません。
海外ブランドを否定する気は無いですが、日本人だからこそ創り上げる事が出来る美的センスを素直に応援したいと思いました。
そして、全く知識や経験がないからこそ出来上がった奇跡も、多くの人に知って頂きたいです。
自分の中で出来上がってしまっている常識も、打ち砕いてみよう!
プロフィール
仲垣友博(なかがき・ともひろ)
株式会社ユハク 代表取締役
2006年4月、ビスポーク(受注製作)の靴、鞄、革小物、ベルトを製作する工房「ameno spazio (アメノスパッツィオ)」を開設。
2009年、現在の株式会社ユハクに改組し、ビスポークで鍛えた感性と技術を活かし、オーダーメイドのみならず、レディメイドで発信するレザーブランド『YUHAKU』をリリース。
ブランド名は職人兼デザイナーである仲垣氏の雅号であった「友博(ゆうはく)」をアルファベットに置き換えたもの。
彼が独自に開発した染色技術は、彼の絵画制作の経験から生まれた、それまでのグラデーション加工の常識を覆す、100%染料による染色。
更に、独自に開発した色留め技術は、革に浸透させて革の中から色落ちを防ぎ、同時に革を保護するため、染めにも関わらず染色堅牢度の高い商品を生み出している。
◆YUHAKUホームページ http://www.yuhaku.jp/