京展賞、日展特選、日展会員賞、日展内閣総理大臣賞、日展藝術院賞、京都府文化賞・功労賞、京都市文化功労者など数々の賞を受賞し、現在では公益社団法人日展常務理事(審査員1994・1999・2004・2008・2010・2012)、公益社団法人日本書芸院理事長、読売書法会執行役員会代表・常任総務を務め、現代書道二十人展メンバー(2008~)として活動するなど、日本の書道界を代表する書家のスゴい人が、本日登場する。
時には食べる事もままならない程の苦しい時期もあったと言うが、彼は一体どのようにして困難な状況を乗り越えてきたのだろうか?
さあ・・・公益社団法人日展 常務理事 杭迫柏樹様の登場です!
「覚悟を決める」
書が好きな父の影響で、小学校1年生の頃から家族で競い合って書いていました。
私は9人兄弟の6番目でしたので、兄や姉には負けたくないと一生懸命書いていました。
中学、高校の頃は、毎日大きな硯にいっぱい墨をすってそれがなくなるまで書いていました。
先生に習う事は無く、競書雑誌十種ほどで月40ほどの課題に取り組んでいました。
京都の大学の美術科の書専攻コースで学び、卒業後は書家になりたかったのですが、それでは食べていけませんので、10年間は高校の国語と書道の教師として働いていました。
当時の私は、自分の目を信じる、というのが芸術家だと思い、27歳までは日展にも作品を出さず、一人で勉強して個展をするなどしていました。
ところが、先輩達から「他の人たちがどんなに真剣にやっているか見てみろ」と村上三島先生のもとへ連れて行かれ、そこで、「日展になんか出さない」と言っていた自分が生意気だったと気付きました。
村上先生やそこにいた人たちは、1つの作品を何千枚と書くのです。
私は、書くよりも考える事に重きを置いて、書く量は50枚から100枚くらい。
そこでは私は怠け者の部類なんですね。
6月に入門し、先生が自由に書かせて下さり、9月に日展に出したら、初出品で入選する事ができました。
今思えばでたらめのような字でしたが、その時先生が自由にさせてくださり、日展に出させてくださった事が励みになり、今の私があります。
教師になって10年目、日展に5回入選して、書家になるには教師とは両立出来ないと思い辞める決意をしました。
1年以上悩みましたが、どんな貧乏をしても、法律で書を書くことを禁止されてもやるくらいの決意がなければ決断はできません。
アマチュアはやればやるほどお金がかかるもので、お給料は全て紙代に消え、時には食べる事もままならない時もありましたが、この覚悟があったから辞めようとは思いませんでした。
作品は、できたと思ったものを貼っておき、三日見て嫌にならないものを完成とします。
書いた時には「できた!」と満足するのですが、三日も見ると嫌になるものです。
特に、書は長く見ることに耐えなければなりませんので、新しさは大切ですが、姿かたちの目新しさではなく心の新しさが大事なのです。
伝統芸術の世界では、60、70歳ははなたれ小僧と言われます。
79歳の今ようやく鼻が乾き始めたところです。
今後は、3年後に自分の集大成の個展を計画しています。
それをやらなければ、一人前ではないのです。
◆書家・杭迫柏樹ホームページ
http://www.k4.dion.ne.jp/~hakuju-k/
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