NHKドラマ“おしん”を大ヒットさせたテレビプロデューサーのスゴい人!

1960年に日本放送協会に就職。
当時はテレビが放映されてまだ7年目、ドラマやバラエティーなどもほとんどが生放送だった。
就職してから15年間は自分の企画した番組も無く、大きな成果を上げることができずに腐りかけた時期もあったという。
しかし、このままではいけないと意を決してドラマの企画書を作ったことで、彼女の人生の歯車が大きく動き出した。
『おしん』『はね駒』など大ヒット作を連発し、NHKで女性初の番組制作局長に昇進した。
さあ・・・Drama Producer 小林由紀子様の登場です!

「毎日が新しいチャレンジ」

私がNHKに入ったのは、テレビが日本で放映されて7年目の頃でした。
番組の作り手側もテレビというものに全く慣れていなくて、手探りで番組を作っている感じでした。
視聴者側もテレビ自体に慣れていなくて、開発途上でしたね。
主に20代の若い人を中心に番組の制作や演出をしていました。
番組作りのパターンも決まっていないので、毎日がドタバタの連続です。
ドラマも生放送で、役者が台詞を忘れたり、制作側の舞台裏がテレビに映ってしまったり・・・
本当に色々ありましたね。
私はテレビドラマの部署を5年経験し、その後ラジオドラマに異動して5年間働きました。
再びテレビの部署に戻ってきたのですが、今度は現場の仕事ではなく庶務課のような役割の部署で5年を過ごしました。
この15年の間に自分で番組を持つことも無く、大した成果を上げることもできなかったので腐りかけていました。
その間、病に伏せていた母の看病も続けていました。
よく人から、看病と仕事の両立は大変だったんじゃないかと聞かれるのですが、これはこれで良い気分転換になっていました。
看病をしている時は仕事のことを忘れられて、仕事をしている時は看病のことは頭からは無くなって。
どっちかだけだったら、バランスが崩れて心が疲弊していたと思います。
このままじゃいけないと意を決して連続ドラマの企画を書いて部長に提案したら、それが幸運にも採用されたのです。
その瞬間に「自分はプロデューサーになるんだ」って気合が入りましたね。
ちょうど、そのドラマの仕事が始まる頃に母の死が重なりました。
母の死はもちろん悲しかったのですが、それをバネにして新しい仕事に没頭していきました。
それから、土曜ドラマ、大河ドラマと様々なドラマを経験させていただきました。
仕事をしていると、思うようにいかないこともたくさんありました。
でも、ありがたいことに、自分の関わった作品で嫌いな作品は一つもありません。
制作の現場では、上手くいかないトラブルは毎日のように起こります。
トラブルが起こった時は、その日のうちに解決するようにしていました。
だって、悩みを抱えたままだとぐっすり眠れないですよね。
そうやってストレスを溜めないように仕事をしてきたのです。
今日の失敗も明日への糧にする。
それが大事だと思いますよ。

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