スピードスケート選手から競輪トップ選手へ上り詰めたスゴい人!

競輪レースの中で一番ヒートアップするグランプリレースが、今月末に開催される。
3500名の競輪選手のトップ9が戦うフィールド。
1位の賞金はなんと1億円!
本日登場のスゴい人が競輪を始めた年は30歳。
周りと比べるとあまりにも遅すぎるスタート。
しかし、彼には揺るぎない自信があった。
今ではトップ選手として活躍している。
彼を支えた自信の源とは?
さあ・・・競輪選手 武田豊樹様の登場です!

「人生はまさかの坂の連続」

幼い頃から体を動かすのは大好きでした。
知床の雪国育ちなので、スキーやスケートが盛んでした。
自然とスケートを始め、小学校高学年の頃には世界を目指すようになりました。
ただ知床には立派なリンクがなく、あるのはスポーツ少年団の父母が集まって水をまいて凍らせたリンク。
リンクの上に霜がはり、マイナス38度の中で練習した事もありました。
オリンピックでメダルをとっても生活出来ないのはわかっていたので、中学3年生ぐらいから競輪に興味を持ち始めました。
競輪に興味はあっても、高校は、釧路にあるスケートの強豪校へ進学。
全国優勝したものの、このままで良いのか意味の無いことなのでは、とずっと考えながら頂点を目指していました。
そんな頃、両親に競輪の道に進みたいと言うと反対されました。
卒業後は王子製紙の実業団へ。
でも、全く活躍できませんでした。
当時、競輪選手になるには年齢制限があり、23歳までに試験に合格しないとなれませんでした。
どうしても諦めきれず、23歳の時に最初で最後の試験にチャレンジ。
しかし、不合格。
この時既に実業団もやめていて、競輪への道も閉ざされたのです。
3日後、橋本聖子さんから「やること無いんだったら秘書でもやりなさい」と電話があり、北海道から永田町に行きました。
スポーツの世界からスーツを着る世界へ。
とにかく秘書業務は忙しく昼ご飯もろくに食べられず、痩せていきました。
2年程のブランクを経て秘書業務をやりながら橋本さんの会社でスケート競技を再開しました。
スポーツを辞めた苦しさや普通に働く厳しさもわかっていたので、スイッチが入ったのでしょうね。
1年後には世界の舞台に戻り、2年目からワールドカップでも優勝出来るように。
ソルトレイクシティーオリンピックに出場し、選手として一番油が乗っている時、競輪選手の年齢制限が無くなりました。
次回のオリンピックを狙っていましたが、頭の中でずっと引っかかっていた競輪選手への夢に再度チャレンジ!
試験に合格し、新人として最年長の30歳で競輪選手デビューしました。
「スケートと競輪は違う」
「30歳からなんて通用するわけない」
と数多くの批判を受けましたが、自分では、そんな厳しさではへこたれない自信がありました。
何よりいつかは自分が輝く場所があるのだと信じていたので!
まさか、またスケートをやって世界にいけるとは。
まさか、競輪選手になれるとは。
人生は、本当に最後の最後まで諦めない事が重要なのだと日々教わっています。

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