浅草を蘇らせ全国商店街も活気づけたスゴいおかみさん

日本で初めて女性だけの協同組合である“浅草おかみさん会”設立。

浅草の観光案内図を作り、日本で初めての2階建てバスを走らせた。

浅草サンバカーニバルやニューオリンズ・ジャズ・フェスティバルを大成功に導き、浅草のお座敷に振袖さんをと浅草観光振袖学院設立。

「全国おかみさんサミット」を開催し、第1回目フォーラムでは、ダイエーの中内社長、テレビ東京の中川社長、デザイナーのコシノジュンコさんがパネラーを務めるなど多くの人たちがおかみさんを応援してきた。

浅草だけにとどまらず、全国の商店街の再生に力を尽くす。

さあ・・・協同組合浅草おかみさん会、NPO法人全国商店街おかみさん会理事長

冨永照子様の登場です!

 

「女性パワーで不景気を吹きとばせ」

当時の浅草は、いわゆる3K。街並みは雑然として、4時半くらいになると仲見世も真っ暗。その上、下町の人間はシャイなところもあって、とっつきにくい感じも与えてしまう。「このままじゃ浅草が死んでしまう。子供たちにいい浅草を受け渡すために、会を作ろうよ」こうして昭和43年に「浅草おかみさん会」が結成。『浅草の為に内助の功で、きめ細やかなサービスをして喜んでいただきたい』

とマスコミに発表すると『もう、男なんかに任せちゃおけない。浅草のおかみさんが立ち上がる』と書かれ、「女のくせになまいきだ」と旦那衆は猛反発。「おかみさん会なんてろくなものじゃない。あんな会に女房はいれちゃダメ」

と言われ、さすがの私も、今日やめよう、明日やめよう、何度も泣いたわ。いいこと続けて挫折したら、浅草の女がすたるって当時の会長・浅草今半の高岡恵美子さんと2人きりになっても続けようと、固い「女の約束」もしたものよ。浅草6区の再開発では、商人にとっての快適環境である人混みを考えてくれない。

それならと浅草出身のホテルニューオータニの社長だった大谷米一さんに協力のお願いをして、『ROX』っていうビルを建てもらったわ。

日本初の2階建てバスも発注したのに、運輸省に問い合わたら、「高さでダメ。」と許可がおりない。結局、運輸大臣に直接お願いにいったら、あっという間にOK。開かない扉を開けるのは、天の岩戸じゃないけれど本当に女性に限るのよ。浅草サンバカーニバルは当初阿波おどりでもやろうかという話を、

故人、伴淳三郎さんが、「阿波踊りなんて古い。リオ・カーニバルがいい」と言い出し実現したのよ。

費用も当時で2,000万円くらいかかって、最初の3年くらいは捻出するのが大変だった。

結局かなり自分たちで自腹を切ることになったけど金は天下のまわりもの。ケチってばかりじゃ、お金は入ってこない。やっぱり使う時には使わなきゃ、人だって集まってこないし、街も元気にならないのよ。

1回目、2回目とお金集めは大変だったけど、今や前夜祭チケットまで飛ぶように売れるまでに成長しました。私達の合言葉は、「勇気」「やる気」「元気」失敗を恐れていれば、物事は進まない。

まず、リスクを恐れないで行動すること、そのためにには男性達にも遠慮しない。

女性には女性のやり方があるはず。

その女性パワーを呼び起こすことから、私達の町おこしは始まるのよ。

私はまだまだがんばるわ!!

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