児童養護施設をご存じだろうか。理由があって保護者と暮らせない子供たちが大人になるまで安心して暮らせる、行政機関である。児童虐待は彼らがたとえ大人になっても終わらない。児童虐待を乗り越え成人し、「虐待を経験した若者たち」と過去形になってもである。本日紹介するのは映画監督 山本昌子さん。自分自身も養護施設で育ち、そこで育つ人の「その後」を当事者として深く理解している。彼らの大人になっても拭えない傷と心の叫びを元にメガホンを取り、ドキュメンタリー映画『REALVOICE』を制作されました。「支えられる側」から「支える側」へとなった山本さんは、居場所づくりや情報発信の活動を続けている。今回はそんな彼女の生い立ちと、同じような仲間達への想いを伺った。
愛は伝わらなければ無いものと同じ
虐待当時者のリアルな声を届けたい
取材に伺うと、山本さんはやわらかな笑顔で出迎えてくれました。場所は山本さんが運営するシェアハウス。質問に丁寧に多角的に答えてくれる山本さんは、朗らかで思慮深さを感じます。
彼女がメガホンを取った『REALVOICE』は70人の虐待当事者のリアルな声を収録したドキュメンタリー。今の彼女からは想像できませんが、彼女自身、育児放棄という虐待を受けた当事者でした。
映画はクラウドファンディングで資金を集め、無償ボランティアによる協力のもと制作され、現在は全編無料で公開されています。そこには山本さんの児童虐待のリアルな声を伝えたいという想いがありました。
児童虐待は保護されて終わりではなく、その心の傷を癒やすために、大人になっても多くのエネルギーが必要な人も少なくありません。
彼女が持つ「伝えたい」「寄り添いたい」「世の中を変えたい」という熱い想いが、周囲を巻き込んで、ひとつずつ夢を現実に変えていったのです。
彼女が歩んできた人生の過酷さを感じさせない穏やかな口調で、ひとつひとつ、丁寧に取材に答えてくれました。
生後4ヶ月から養護施設で育つ。後に知った家族の理由
私は生後4か月の時に初めて保護されたんです。当然記憶はないですが、原因は家族の育児放棄でした。発見されたときにはかなり衰弱しており、運ばれた先の病院では、発見があと数時間遅ければ死んでいたかもしれないと言われたそうです。衰弱していた私を発見してくれたのは父の姉、伯母でした。私の両親は20歳以上年齢が離れた年の差婚でした。結婚後、父の実家に嫁として暮らしていましたがなかなかうまく関係が築けないまま、孤立した中で私を産むことになりました。母親は、父親とふたりで家を出て一緒に子どもを育てたいと希望していましたが、私の父親は長男。家に残ることを選択し、私を置いて母親だけが家を出ることになりました。
祖父母や父親の姉弟も暮らす大家族でネグレクトが発覚したとき、父親は「育児放棄は母親がいたときからだった」と主張しました。でも今になって母はいわゆる「産後鬱」だったんじゃないかと思い当たります。
実は私の母自身も親からの愛を受けられず育っていたんですね。私の祖父母にあたる、母の両親が精神疾患を患っているために、自立した子育てができないと判断されたようです。ですから「幸せになりたい」と願っていた母が、結婚して憧れの家庭を築くはずが、孤独の中で子育てと向き合うようになった事情があったのではないか。と推察しています。
施設で育つことは「普通」だった
ドキュメンタリー映画『REALVOICE』に記録された虐待当事者たちの声では、一言に虐待経験者といっても、それぞれに違う経験や背景があることを伝えています。私自身の施設で育った経験は恵まれていた方だと思います。小学生などの家庭生活を桂冠してから施設で暮らし始める子どもと違って、生後4ヶ月で施設に入って暮らし始めた私にとって、「普通の家庭とは違う施設育ち」ではなく「施設で育つことが当たり前」でした。「普通とは何か」ということを折に触れ考える機会がありました。
施設では居心地がいいと感じる一方で、小学校や中学校に進学する節目には「家に戻るのか」と選択をする機会もありました。帰りたいかと問われれば「帰りたい」と答えていた気がします。それでもやはり家に帰ることはなく、自立するまで施設で暮らすことになりました。ですから私は乳児院を経て、児童養護施設、その後は自立援助ホームで19歳まで育ちました。
小学校では地域からの理解もあり、施設出身ということはわだかまりなく通っていました。施設で生活する歳の近い子達はそれぞれ別の小学校へ通わせるようにしてくれました。それは何か問題が起きたときに「施設の子だから」という偏見から子どもたちを守るための施設の考えでもあります。
施設でのルールは厳しく定められていました。子ども心に反発したくなるようなことにも、施設の職員の方は密にコミュニケーションを取り、理由を説明して子どもたちが納得できるように対応してくれました。
小学校の頃の門限は4時半。一般家庭の子どもの方がきっと緩いですよね(笑)。友達と遊びたかった私は集団下校を途中で引き返し、ランドセルを茂みに隠して遊んだことがありました。ちょうどその時、不審者の情報があり、帰って来ない私を心配し警察が出動する騒ぎになって。無事がわかった後に強く叱られました。ルールは自分の安全のためである。そういうことをきちんと伝えてくれる施設でした。
施設を出たくない。荒れた生活から高校進学へ
小学校から中学校までは皆勤賞。それは学校が好きだったというより、大好きだった施設の先生がきっかけでした。小学2年生で初めて皆勤賞を取ったとき、凄いとその先生が喜んでくれました。怒られることが多かった私にとってはとてもうれしい経験だったんです。
施設から高校への進学先は、今では私立や通信高校も選択できますが、私が受験する当時は都立高校の選択肢しかありませんでした。私にとって都立高校への進学は高いハードルとなりました。
児童養護施設は、あくまでも児童や生徒のため。高校に進学できなければ施設を出て、社会人になることになるのです。学校では施設にいることも隠さず、時には家庭が安定していない友達には「施設の方がいいんじゃない?」と相談に乗るほど、私にとって施設は大切な居場所でした。施設に残りたい一心で勉強に励み、なんとか無事に都立高校へ進学しました。
注:現在はこの頃より施設や福祉を取り巻く環境も大きく変わってきています。進学先が高校でなくても、何か目的があるなら施設に残ることも可能になりました。
ところが高校に進学する直前、大好きな先生が退職することになりました。学校はサボりがちに。出席日数も進級、卒業するにはギリギリとなりました。
私にとって育ての親とも言える職員の方との別離は想像以上に孤独感を募らせました。やがてその孤独を埋めようと、恋愛にのめり込んでしまったんです。信頼と同時に厳しさもあった職員の方がいなくなったことで、寂しさと共に初めての開放感も手にしたため、付き合っていた男性の家に泊まるようになり、施設へ帰らなくなってしまいました。彼も複雑な家庭で育っていて、同じような傷を抱えた二人が孤独を共有できることが愛だと錯覚していた部分がありました。それでも当時の私には必要な時間だったと感じています。
児童養護施設では解決できない大きな問題が起きると「自立支援施設」に送られます。児童養護施設を卒業して社会で生活するまでのサポートをする「自立援助ホーム」とは異なり、非行に走ったと見做された子ども達のための施設です。
一週間帰らないと自立支援施設に送られることを知っていましたので、一週間後に施設へ戻り、荷物をまとめ始めます。どうせ送られるなら自分から出ていく。そう決めた私を引き止めたのは、幼い頃からずっと私を見守ってきてくれた職員の方たちでした。
小さい頃からお世話してくれていた職員の方たちが施設長に「昌子をここで卒業させてあげたい」と頭を下げてくれて児童養護施設に留まれることになりました。
「HOME」は「FAMILY」じゃないという現実
私が自立支援施設のことを知っていた理由は、同じ施設で育った仲間が入ることになったからでした。幼かった私はその時、施設の職員の方たちに「裏切り者」という思いを抱きました。普通の家族だったら子どもが非行に走っても、そんなところに入れたりしない。児童養護施設は「HOME」ではあったけれど「FAMILY」ではないのかもしれないと疑心を抱きました。
今思えば、大人の事情や大人にしか見えないものがあったのだろうと理解しています。ですが当時は「普通の家庭の子だって家に帰らないことがあるのに、自分たちはどうして厳しい施設に送られるのか?」と考えていました。
一週間の家出騒動の後、山本さんは外出禁止になりました。反省を促すためと連れていかれたのは一時保護先。そこにいたのは辞めたはずの大好きだった職員の方でした。
「昌子がこうなったのは育て親がやめたからだ」と、「特別措置」として退職した育ての親に会わせようという施設の粋なはからいでした。育ての親が「こうして私の知らない昌子が増えていくんだね」と言ったのは今でも深く心に残っています。
この育ての親との再会は私の意識に変化をもたらしました。それまでは「なんで私が」という自分の視点だった世界が、「寄り添ってくれた大人たちにも大人の事情」があると大人たちの視点があることに気がついたのです。
そうして多くの愛情深い大人に見守られて施設で暮らしてきた私にも、施設を出なければならないときが訪れました。専門学校への進学を決めて迎えた18歳。将来の夢は児童養護施設の職員への道でした。アルバイトをしながら夜間に通った専門学校は、奇しくも育ての親である職員の方と同じ学校でした。
(2DAYに続く)
インタビュー:NORIKO ライター:久世薫
山本 昌子(やまもと まさこ) プロフィール:
社会活動家。映画監督。振袖ボランティア団体ACHAプロジェクト代表。生後4ヶ月で育児放棄され、保護される。児童養護施設で育った経験から、同じような経験者のための居場所つくりや情報発信活動を行っている。虐待された人たちのリアルな声を届けるドキュメンタリー映画『REALVOICE』監督。
ドキュメンタリー映画『REALVOICE』
https://www.youtube.com/watch?v=R8LhlmtvBMs
『REALVOICE』公式サイト
https://real-voice.studio.site/
山本昌子公式サイト:https://achaproject.wixsite.com/website-1 ★書籍化プロジェクトも進行中!
X:https://twitter.com/7974lovesmile
Instagram:https://www.instagram.com/7974lovesmile/
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