時代を映すファッションデザイナーとして世界で活躍するスゴい人!DAY2▶白浜利司子様

昨日に引き続きご紹介するのは、東京在住のファッションデザイナー白浜利司子様。高度経済成長期を抜けて日本中がバブルに沸いた時代から今日にいたるまで現役のファッションデザイナーとして活躍をしている女性です。そのデザインはいつの時代も新鮮な驚きを映している。ファッションとは何か。「着るもの」としての洋服に「伝える力」をのせて、彼女のデザインは社会に、世界に「今のままでいいの?」と問いかける。長年にわたって飽くことない探求心を形にするその情熱の源を伺いました。

さあ、「RITSUKO SHIAHAMA」ブランドデザイナー 白浜利司子様 の登場です!

 

  NEVER GIVE UP  

▶今日のポイント

・人との出会いが原動力に

・東京、パリ、中国、そして世界へ

・ファッションが挑戦する地球環境への取り組み

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優秀なセールスマンとの出会い

ちょうどその頃、パリで有名なセールスマンだったブノア氏が独立されるという噂を聞いたので、勇気を出して声をかけてみたんです。彼は他のブランドのセールス担当だった時に、誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰る人でね、彼みたいな人と働きたいなと思っていたので快諾してくれたのはとても幸運でした。彼にしてみたら知名度もなく、駆けだしの日本人がやっているブランドなんて見向きもしなくてもいいくらいです。試しにうちのブランドのセールスをやってくれないかと話したところ、しばらく様子をみてみると言ってくれました。これだけでも普通ならありえないくらいのことです。うちのブランドに対する彼の指摘はとてもロジカルなもので、駆け出しの私のブランドは価格が高すぎるというものでした。日本のロジックで価格を決めるのではなく、パリのここで勝負できる価格に抑えること、他ブランドにはないオリジナリティを創ること。こんな宿題を次シーズンまでに解決してくるようにと言われました。

そこから世界各地への旅が始まりました。ヨーロッパはもとより、中国へも行きました。毛皮工場やニット工場、染色工場など様々な工場へ足を運びました。移動のクルマの中でデザイン画を描いてね。オリジナルの素材や技法を思考錯誤する日々でした

例えばある原毛染色工場へ行った際に、赤と白の原毛を分けていただき、フェルト工場へ。フェルトを作る2枚の大きな鉄の円盤のような機械に原毛を少量投入し途中で引き上げる。それはフワフワした、イメージとしてはクモの巣のような状態になります。これを黒のウール生地の上にニードルパンチで叩きつけた生地を作りコートに仕立てました。

 アイデアを形にできる力は天性のもの

また、日本の着物の反物の染め技法に吊り染めというのがあります。天井から吊るした横に長い生地にエアブラシで絵を描くのですが、当時好きだったポーランドの画家のズダノフスキー氏の絵を写したくなって。素材はオーガンジー。あまり和の雰囲気になりすぎないように絵師さんにお願いしながら描いてもらいました。

伝統的な技術で最先端のファッションを創造

当時は年に4回パリに行き、うち2回は次展のプレゼン。その時はズダノフスキーの絵は絵葉書1枚。そこから何ができるのか想像できなかったブノアは、展示会前日、サンプルが詰め込まれたトランクを開けるなり、青い目を見開きこれが…ズダノフスキー!素晴らしい!!と製品を抱きしめてくれました。彼のこのリアクションを得るのに3年はかかりましたね(笑)。嬉しくて涙が出ました。この頃には毎回の展示会で50件ほどのクライアントからオーダーを受け、米国、ヨーロッパ各国、中東と世界中で取り扱われるブランドとなっていました。パリ展示会を始めてから5年ほど経っていました。そして2001年、米国であの忌まわしい9.11同時多発テロが起きました。主要取引先であったアメリカのクライアントが飛行機に乗るのが怖いと、一斉に買い付けに来られなくなりました。活気のあったパリのコレクションシーズンに暗雲が立ち込めました。そんな重苦しい空気の中、代わりにロシア市場が少し伸びたり、また当社が直接買い付けるインポート事業部を設立したりして、世界のパワーバランスは変わりつつも売り上げをなんとか維持していました。パリのセールスエージェントMC2とプレスエージェントLaurent Suchelとも契約し撮影も現地のスタッフで行い、そろそろ本命のパリコレクションへと軸足を移し始めましたが、ミラノのショールームでコレクションの全てが盗難にあって大打撃。世界的な警戒感と長い不景気感。何度となく、世界的なリスクの影響を大きく受けることで、収支のバランスが崩れ、パリコレクションに打って出るというのはなかなか難しい時代なのかなと思うようになりました。そしてリーマンショックが起こり世界金融危機となるのです。

 

さようならパリ、こんにちは中国、そして世界へ

2008年に思い切ってパリを撤退することを決めてから、中国で『RITSUKO SHIRAHAMA』を展開することになりました。『RITSUKO SHIRAHAMA』の商標はすでに中国では登録されており使えず(笑)、『ritzblu:』のブランド名でスタート。2009年上海 伊勢丹でショップオープン、2010年天津 伊勢丹、2011年蘇州 銀泰百貨店と3店舗オープンさせましたが、その頃尖閣諸島問題が表面化。次第に対日感情は悪化し非売運動が始まるなど状況は悪化、ここは潔く撤退!となりました。一方日本では2007年に、地球環境問題を扱った「LOVE PLANET」から始まり、数シーズンこのテーマを東京コレクションのランウェイで発信しました。この一連の作品は新宿伊勢丹1Fのショーウインドウを飾ることとなり同時にフェアも仕掛けとても感慨深かったですが、果たしてこの意味や事の重大性が伝わっているのか?が、当時の私の思いでした。「LOVE PLANET」はウズベキスタンの大統領令嬢が主宰するStyle.Uz(スタイルウズ)という世界中のデザイナーを集めたファッションイベントに招聘され、そこでショーと地球環境についてスピーチをさせていただくことになりました。ファッション業界がいかに地球環境保護へ寄与していく覚悟があるのか、今まさに我々が動かなければいけないというメッセージをロシア語と英語で通訳を通して、多くの方に伝えました。感動したというお声をたくさんいただいて、意義深い活動ができたのではないかと、心に熱いものがこみ上げてきました。これをきっかけに環境保護などの大きな視点からの表現活動をファッションを通して行うようになりました。

地球環境をテーマにしたモチーフでショーを展開

ファッションを通して地球環境を表現する役割を果たす

地球規模のテーマに対してファッションという形で表現していくという手法はこれからの時代にファッションが社会に貢献できる一つの形だと思います。

元アメリカ副大統領のアル・ゴアの著書「不都合な真実」が出版された年を境にして、世界的に地球環境や環境保護という機運が高まりました。私自身も地球環境の危機的状況を知るにつけ、ファッションなんてやっていていいのか、今後洋服は作れなくなるのではないかといった思いを抱えるようになりました。その私の中の想いや葛藤を洋服のデザインにぶつけることによって、地球環境に対するファッションデザイナーとしてのテーゼを表現したんです。

2008年、例えばフードロスの問題をテーマにしたコレクションでは、フラワーアーティストの東 信(あずま まこと)さんの野菜と果物のタワービジュアルと私のデザインをコラボレーションしたコレクションを発表しました。いかに多くの食材がロスとして廃棄されているのかを啓発する事を目的としました。

モードと野菜のインスタレーション

2010年には、日本の森林が海洋汚染や自然災害を抑止する重要な役割を担っているといるのに現状は?壊れかけている森の問題を投げかけるために間伐材でドレスを制作しました。森を守ることで地球が守られ、やがて命を守ることにつながる。作品発表はテーマありきですが美しくないと人は見向きもしません。間伐材は木ですから茶色です。それを苺やマリーゴールドなどの自然由来の色に染めて、薄くレース状に加工し、裁断、縫製しました。前例がない加工ですから、レース加工の職人さんにも当初は「木なんてパンチ加工できないよ」と言われましたが、実際は試行錯誤を重ねて私の空想を形にしてくれました。また間伐材でニットを編みたいと考えて、間伐材の生地自体を伸縮性のあるラバー素材で挟んで圧着し、テープ状にカットすることで伸縮性を獲得し、ニット用の糸を作りました。

間伐材で作ったパンチングレース

私自身、求めればこのような多様なアイデアで今まで無かったアイデアが生まれ現実となる体験をさせていただきました。

日本の山は一見きれいに見えても死んでいる山があります。適切に木を間伐し、下草に日光が届くように手入れをしなければ多様な植物が複雑に根を張らないので山が水を貯えられず、土砂災害が簡単に起きるようになったりします。人間が山を育てなければ山は山としていられないのです。山や森は人間が育てるものなのですが、残念ながら今の日本には放置林が増えています。こういった問題を啓発していくイベントのために日本全国各地へこのドレスは貸出をしました。

 間伐材を使ったドレス

ポストコロナを生き抜くファッションとは

ファッション業界がコロナにより受けた影響で大きいのは、新作発表の場、いわゆるコレクションや展示会などのバイヤーとデザイナーが情報交換とビジネスをするリアルな場が実現できなくなったことです。バイヤーは新作を仕入できないし、デザイナーはもちろん製品が販売できなくなりました。このニューノーマルなカルチャーを柔軟に受け止めていくために、当社はオンライン展示会のプラットフォームである「NEXT SHOW ROOM」を立ち上げました。独自のオーダーシステムを開発し、操作性がよくバイヤーであればどなたでも参加できるプラットフォームです。新しいブランドの導入にも役立ち、今ではたくさんのブランドやバイヤーの登録が増えて活発なビジネスの場となってきました。

大切なのはコーチャブルな人間であること。

コーチャブルというのは、コーチングを受ける立場の人がその内容を受容する姿勢でいることです。私自身がこれまでの人生の中で、国を問わず仕事のパートナー、友人達から多くのことを学んできましたが、それにより自分自身を大きく成長させてもらいました。

1984年にブランドアップしてから2021年で37年、様々なことがありました、米国の9.11やリーマンショック、中国の尖閣問題、東北大震災もありました。そして今回のコロナ禍も。そのたびに私もブランドも会社も困難に直面しながらそれを乗り越えてこられたのは、ほかでもなくこのコーチャブルな姿勢だったと思うのです。倒れそうになりながらもポジティブに目線を保ち、しかるべき覚悟の上で自分自身が新しいことに挑戦していくことで、また成長の糧を得ることができます。ブレイクダウンがあるからブレイクスルーができるわけで、それがまさに人生の醍醐味なのです。

私自身は人生の後半戦に差し掛かる今、来し方を振り返りながらさらに「女性を幸せにして、地球に貢献するファッション」を追求していきたいと考えています。

 (了)

 取材・校正・編集:NORIKO 撮影:グランツ株式会社

 ◆白浜 利司子(しらはま りつこ)氏プロフィール

RITSUKO SHIRAHAMA」ファッションデザイナー

ブランド公式サイト:https://ritsukoshirahama.jp/

東京都出身

成蹊大学 文学部英文学科卒業。

バンタンデザイン研究所 コーディネーター科卒業。

1980年、株式会社アルファ・キュービック入社 アルファ・キュービック・メゾン デザイナー。

1983年、株式会社アーモンド・アイに入社し、1984年『RITSUKO SHIRAHAMA』ブランドアップ。

1988年、東京コレクション初参加。以降シーズン毎に東京コレクションにて作品を発表。

1995年、パリ アトモスフェール展に参加。ヨーロッパ、アメリカ世界10ケ国50店舗へ販売を開始。

1999年、代官山に初めてのショップオープン

2000年、青山にショップオープン。以降、全国の百貨店にショップ展開を始める。

2002年、パリMC2ショールームと契約。プレス ローラン・スシェルと契約。

2006年、スーパーモデル ヘレナ・クリステンセンとコラボレーション

ritsuko shirahama meets helena christensen』を代官山ショップとバーニーズで開催。

2008年、ウズベキスタンより招聘され、LOVE PLANET のショーの開催と地球温暖化の危機を訴える。

2009年、中国での展開をスタート。上海 伊勢丹ショップオープン

2009年、フラワーアーティスト 東信氏の演出により『モードと野菜のインスタレーション』を開催。

2010年、フォトグラファー 蜷川実花氏の撮影により『間伐材を使ったインスタレーション』を開催。

2010年、天津 伊勢丹 ショップオープン

2011年、蘇州 銀泰百貨店 ショップオープン

2014年、RITSUKO SHIRAHAMA 30周年記念イベント。ショーとアーカイブ展を同日開催

 

 

 

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