本日ご紹介するのは、海外客にも大人気のタカノフルーツパーラーで知られる「新宿高野」4代目髙野吉太郎社長。135年目の老舗起業をけん引するトップリーダーとして、質実剛健、本業集中の気概に満ちた経営方針とその生きざまを伺いました。
新宿と共に
見どころ
ー新宿生まれの「マスクメロン」の開発
ーコロナ禍に活きる過去135年間における災害時の経験
日本が明治時代に開発したマスクメロン栽培
果物はね、代替わりしたらすぐわかりますよ。同じ場所で同じ日数育てても、水のやり方、気候の調整の経験が全然違うからね。手入れはなかなか引き継げないのよ。見た目も味も全然違います。
マスクメロンは新宿御苑にあった「農事試験場」生まれの日本オリジナルの果物です。明治時代に新宿試験場で開発改良された品種で、世界広しといえども日本にしかない果物です。ある意味国家事業ともいえるものです。ガラス温室の中で手掛かり、人がかりで人間の英知で作りだした果物ですから。桃やミカンみたいに自分で育つ部分が本当に少ない。はじめは1本の木に13-15個の実ができます。最初の剪定で残すのはそのうちのたったの3個。この時にどれを残し、どれを切るのか、この目利きが重要です。何十年も経験を重ねた親父と息子とでは絶対に違います。受粉した3つのうち、最終的に残すのは1個。要するに1本の木から1個のメロンができるわけですから養分が過多になって、メロンが割れてくるわけです。100日くらいするとね、夜中にバリバリと音がするんですよ。中から果汁があふれ出てきます。マスクメロンの白い模様は要するにメロンの「かさぶた」なんですよ。
その種は国内のあるところに金庫に入れて厳重に管理されています。栽培に適した気候である静岡県産のマスクメロン農家の中の10数社と新宿高野は取引しています。マスクメロンはですね、種から栽培からすべて完全に管理されているんですよ。誰が種を播いて、いつ芽が出て、いつ剪定したのかを全部完璧にデータを取っています。メロン一つ一つにシリアル番号が付いています。30年以上前、トレーサビリティなんて言葉がまだ普及する前からマスクメロンはすべて管理されてきました。だから静岡のマスクメロンは高いんです。
コロナ禍での新宿高野の経営は?
コロナの時は、自粛期間にはパーラーもクローズしました。市場は動いているので、本店や百貨店での果物販売は動いていましたが。その時に社員に話したのは一つです。
コロナ禍は我々個人にとっては未知の災禍ではあるけれど、新宿高野の過去135年の間にはペスト流行もあったし、関東大震災もあったが、新宿高野は残ってきた。太平洋戦争で東京が焼け野原になった時も新宿高野は存在したし、どんな災禍も生き抜いてきた。明治18年から商売やってきて潰れたことは一度もない。焦るな、不安になる必要はない、我々は時代を生き抜く力を持ったDNAを受け継いでいる企業なんだと。近いところですと東日本大震災もありました。東日本大震災の時は、改めて果物というものが人々の暮らしの中に必要なのだと実感しました。
従業員を大切にする社風
古臭い言い方ですが、従業員は会社の宝です。うちは社員を解雇したことがあまりありません。
3代目吉太郎の父の代にはアパレル事業を展開したことがあります。マーケットでの人気も高く、シンガポールに出店もしたりと一時は事業として40店舗、売上高200億ほどあったのですが、時代の流れを汲み取りつつ、2000年2月にアパレルはクローズしました。その時でさえ、社員を解雇することはなるべくせず、少しずつ就職斡旋などもしたりして本店に集めたりしながら事業縮小をしました。昔ね、果物の贈答かごがあったのをご存じですか。お祝い事や病院への手持ち品などによく利用されていたのですが、そのかごに、果物を美しく、そして味も形も損ねないように、そして崩れないように積み上げる技術を持つ社員がいたんです。いわば職人ですよね。時代が変わり今や果物かごを贈答する文化も少なくなってきました。でもその技術を持つ社員はね、今は70代後半ですけれどもその経験と知識を若手社員に伝える講師として本社で活躍しています。様々な新しい挑戦をしてきた新宿高野ですが、常に立ち返るのは新宿高野の創業の祖は果物であること。どんな時代になっても新宿高野は果物屋なんです。そこを大切にしている限り、これから先、どんなに新しい挑戦を経ようとも新宿高野が揺らぐことはないと考えています。
新宿の街で高野ができること
私は間税会など、新宿の街の様々な会で役割をお勤めしているのですが、2011年の震災の後に新宿という町が日本にどう役立てるのかを考える機会がありました。政府の方や東京電力の方にもお会いして、新宿として震災復興に何ができるか。新宿はスケールが小さな企業が沢山集まって頑張っている町です。アルタから伊勢丹までの通りと、銀座の1丁目から8丁目までの売り上げがほぼ同じなんです。イメージは銀座の方が華やかですけれどね。大きなお金をどんと寄付するよりも、町のエネルギーを使って皆で力を合わせて何かをすることの方が得意なんです。新宿というのはね、経済面、物資面、人口面でも非常にパワーがあるんですよ。新宿が元気を出せばそのエネルギーは日本中へ広がっていく。
震災から2か月がたった時にとらやの黒川さんから電話がありましてね、「髙野さん、もう生活物資は生き渡った。今こそ人を癒せるのは甘味だ」とおっしゃったんです。とらやさんは長く続く歴史の中で、戦争中にいかに甘味が侍や兵士を支えたか。それをご存じなんですよね。榮太郎飴さんにもご協力いただきました。新宿高野はプルトップのフルーツ缶詰を拠出しました。すごく喜ばれたと聞きました。災害の時に命をつなぐのはもちろんまずは生活物資です。だけれどその次に人の気持ちに寄り添い、支えていくのが何かなのを知っていなければいけない。人間の本質を知っていることが大事ですよね。次は人の心を元気にしなければと、新宿エイサーという祭りを毎年開催しているのですが、震災後に福島のすずめ踊りの方を招待したんですよ。みなさん喜んでいただきましたが、我々もお役に立てた幸福をいただきました。新宿は今コロナの影響で大打撃を受けています。残念ながら歌舞伎町から出たコロナのクラスターの話で、新宿区全体が風評被害を受けた結果となりました。これも一つの歴史の通過点として今こそ新宿の街が力を一つにして先に進む必要がある時期だと思います。
まず新宿が元気を出して、その元気を日本へ広めていく。それができるのが新宿の街の力だし、パワーなんですよ。新宿の街が日本の元気の源であり続けるようにしっかりと街を支えていく新宿高野でありたいと思います。
インタビュー・校正:NORIKO 撮影:株式会社グランツ 協力:株式会社アイロリコミュニケーションズ
<取材を終えて>
あまり取材などはお好きでないと事前に伺っていたので、少し緊張しながら伺いました。お会いした瞬間からにこにこ笑顔でお出迎えくださり終始柔和な姿勢で、とても楽しく取材をさせていただきました。新宿高野フルーツパーラーは女子大生時代から憧れの場所でした。その空間を社長と社員スタッフの方が一生懸命に支え、作られておられると知り、改めてフルーツパーラーが好きになりました。記念日には我が子を連れて行きたいなと思いました。
◆プロフィール 髙野吉太郎(たかの きちたろう)
株式会社新宿高野 4代目 代表
東京都生まれ。東海大学卒。
新宿法人会 会長
新宿間税会 副会長
新宿高野公式サイト:https://takano.jp/