怪我から生まれた日本初の縄跳び教室
シルク・ドゥ・ソレイユの世界へ
感じた限界とクラウンの可能性
今回登場するスゴい人は「縄跳びで食っていく!」と高校生で決めて、のちにそれを実現したスゴい人!
小学生から始めた縄跳びでプロの世界へ。
数々の大会に出場し、シルク・ドゥ・ソレイユに出演した経歴を持つ。
挫折があってもそこで終わらず次の道へと進み続ける姿。
なわとび教育やプロの世界、今まで誰もいなかった所へ飛び込む勇気はどのように培われたのだろうか。
さあ…
シルク・ドゥ・ソレイユ アーティスト
縄跳びパフォーマー/ブロガー
粕尾 将一様の登場です!
縄跳びとの出会いからプロへ
縄跳びを始めたきっかけは小学校の体育、初めてできたのは後ろとびでした。
3年生で2重跳びができるようになり、縄跳びが好きになりました。
縄跳びの授業がある狛江の高校に進学し、3重跳びが以前より飛べるようになった時は嬉しかったですね。
ネットで調べて田口師永さん、渡辺貞稔さんと出会いました。
この出会いがパフォーマンスのきっかけでした。
池袋で週2回3時間、縄跳びの練習をしていました。
師匠の田口さんが2003年シルク・ドゥ・ソレイユに入った事は印象に残っています。
日本公演に行き、初めて見て感じたことは「面白い」と「つまらない」の両方でした。
当時の私にとって縄跳び=競技だったので、舞台パフォーマンスはすごいことじゃないと感じていました。
縄跳びで生きていこうと思ったきっかけは高校の縄跳びの授業、そして師匠と出会ったことです。
学生時代の学び
高校3年生、受験期も縄跳びのことを考え筑波大学をAC入試で受験。
入学後は指導理論を学びました。
多くの人が縄跳びを人に教えてもらわず、自己流でしていることに気づいたのです。
それが小中学生の運動嫌いの原因になっている。
だから教える第一人者になるために大学で学びました。
大会出場と手ごたえ
大学生活以外では大会に積極的に出ていました。
2003年のアジア大会に出場したのち、師匠が協会を作って国内予選を行うことになり、2005年に第一回の全日本大会が開催されました。
第一回大会の上位3人はアジア大会に出場することになりました。
アジア大会は負ける気がしなかったです。
世界では体育に縄跳びが入っていませんが、日本は小学校体育で必ず扱われます。
海外はスポーツクラブに体育の役割を果たしてもらっているので、全員が縄跳びを経験しているわけじゃない。
小学校で二重跳びを教えているのは世界で見ても稀なケースです。
だから日本人は基礎技術レベルが高いです。
しかし2006年のカナダでの世界大会は20ヶ国集まって、正直厳しいと感じました。
怪我から生まれた日本初の縄跳び教室
縄跳び指導を蓄積で確立しようと研究中です。
2006年に膝の靱帯を切ってしまって手術をすることに。
その頃日本初の縄跳び教室を作り、月謝制で小学生に教え始めました。
体系化してノウハウを蓄積したいと思い、大学院に進学。
今の日本の縄跳び界で活躍しているのは、私の教室出身者がほとんどです。
現在、教え子の1.2期生が大学生になって教えています。
受講生は多い時に一期で120名いました。
嬉しかった瞬間は、子どもが教室以外で練習をして、次の週に見せにきてくれる時です。
子どもは教えた以上に咀嚼して理解し、自分のものにしています。
小学生から教えていた生徒の4人は、世界チャンピオンになりました。
シルク・ドゥ・ソレイユの世界へ
シルク・ドゥ・ソレイユには、ホームページ上のJobページからレジュメとYoutubeを送ったことで合格しました。
田口さんが怪我をした時に補填役としてオファーが来たこともありましたが、その時は受けませんでした。
本契約はある日突然、カナダからダイレクトに携帯へ電話がかかってきました。
24歳の時に入ったので大学院は中退しました。
ステージに立つと観客が目の前にたくさんいて、跳ぶときはむちゃくちゃ緊張しました。
シルク・ドゥ・ソレイユは真っ暗闇なので平衡感覚を失います。
競技は審判に対してのみ評価を求めますが、シルク・ドゥ・ソレイユはお客様とメンバーの両方を意識しなければならず、より広い視野が必要です。
公演90分に対して私の出番は3分でしたが、役どころはショーの一発目、主人公の女性が初めて出会う異世界の住人でした。
失敗は何度もしましたが、競技とは違う舞台の魅力にどんどん惹かれていきました。
感じた限界とクラウンの可能性
ノンバーバルの世界でコミュニケーションを学びました。
その中でもクラウン(ピエロ)の表現力の深さに興味を持つとともに、縄跳びだけで表現する限界も感じました。
クラウンはアクション、リアクションと役者の表現も持っている点に惹かれ、1,2年ほど勉強しました。
クラウンで舞台に立つことは無かったのですがシルク・ドゥ・ソレイユ内部の演技披露会ではたまにしました。
クラウンは場を制することができるので、縄跳びを子どもに教える時にも応用できます。
帰国後の新たな挑戦
6年近く日本を離れていたので、帰国してから全く仕事がありませんでした。
どうしたら仕事を取れるのか考え、ブロガーになり、縄跳びをブログで発信してお仕事に繋げました。
今後はシルク・ドゥ・ソレイユでの経験を活かして、挫折や夢についての講演活動を広げていきたいです。
私はやりたいことしかないです。
表現の世界にも興味があって、コンテンポラリーダンス、フリースタイルフットボールの人と一緒に新たな作品を創作するプロジェクトを動かしています。
人生での挫折
挫折の経験は3つあります。
1つ目に足の怪我で一年半ほど縄跳びができなかったこと。
世界大会から帰ってきてすぐ、動けないなりにできることを考え、次に進む決意をしました。
2つ目にシルク・ドゥ・ソレイユの契約が決まった瞬間に、それまでの縄跳び競技を諦めることになったこと。
小学校からやっていた縄跳びでしたが、世界大会という壁にぶつかり2009年8月6日まで頑張って踏ん切りをつけました。
そのわずか2日後に契約が決まったのです。
ブログに競技引退、大学院に専念と書きましたが、やっぱりシルク・ドゥ・ソレイユに行こうと決めました。
3つ目にシルク・ドゥ・ソレイユをリストラされたこと。
大人の事情で縄跳びの演目が無くなってしまいました。
日本でのコネも仕事もなかったのですが、ある日ブログの一記事がバズったことでブログの魅力と力に気づき、本格的に発信をするようになりました。
その結果、ブログからスポンサーとも繋がることができたのです。
若者に送りたい言葉
「こっちがだめでも、こっちの方法で」というチャンスを引き寄せる思考は、ポジティブな転換と、飽きるほどやりきったという両方の側面があると思います。
シルク・ドゥ・ソレイユの公演は2500回あって、少しでも違うことをすると怒られたので、クリエイティビティを出せず新しいことをやりたいという気持ちがありました。
だから契約を切られた時に、よし、やりたい事をやろうという気持ちになりました。
小中学生に「好きなことを見つけて仕事にしよう」とメッセージを送ります。
自らの手で仕事を創っていく時代ですからね。
少し上の世代には「好きに縛られるな」と伝えたいです。
好きという言葉から抜け出せないことは多いですが、惰性ではなく本当の好きを心に聞いてください。
取材を終えて・・・
日本人は誰もが小学生の頃、自然とやっている縄跳び。
単純に思われがちな縄跳びを、改めて科学的に教わろうとする日本人はいなかっただろう。
粕尾さんは縄跳びが好きである一方で、縄跳びが出来ずに運動嫌いになっている子どもがいる現実を知り、教えるプロを目指す。
単に縄跳び好きではなく、指導方法を科学的にも学び、縄跳び市場の可能性を分析して名古屋に縄跳び教室を作るなど、マーケティングも具体的に実践されている粕尾さんの今後は非常に楽しみである。
今回の取材では、当たり前と思ってしまう事の中でも、見方を変えることで色々なチャンスがまだまだあるという事は大きな気付きでした。
プロフィール
粕尾将一(かすお・しょういち)
高校の授業がキッカケで縄跳びの魅力に目覚め、プロの縄跳びパフォーマーとなる。
数々の大会を経て縄跳び教育という分野を開拓し、筑波大学にて指導理論を学ぶ。
そして縄のまっちゃんという芸名で日本初のなわとび教室を開校。
24歳の時にシルク・ドゥ・ソレイユからオファーが来て専属契約を交わし、米国フロリダ州の常設公演「La Nouba」に約2500回の長期間出演を果たす。
現在は名古屋にもなわとび教室を開校し、出張授業などを通じて指導教育に力を入れている。