「明日からお小遣いはありません」
「社長になりたい」人間から「社長」へ
「エンターテイン麺トレストラン」をつくりたい
本日登場するのは、ぶっかけうどんの発祥・倉敷うどん ぶっかけふるいちの社長の座に31歳の若さでついた、スゴい人!
年商14億円、従業員300名の同社を牽引する傍ら、音楽活動もおこなう多彩さを発揮。
うどん天下一決定戦2016では日本一に輝いた。
CIが叫ばれはじめた時代の波の中、饅頭屋という家業を、企業へと発展させた彼の礎には、幼少期の経験と、先代である父親の数々の教えがあったという。
彼の豊かなバイタリティを育んだのは、いったいどのような教えだったのだろうか。
さあ…
株式会社ふるいち
代表取締役 古市 了一様の登場です!
「明日からお小遣いはありません」
小学校5年生の時、父に呼び出され「明日からお小遣いはありません」と言い渡されました。
まんじゅう・うどんの製造販売を営んでいた実家は、まんじゅうが爆発的に売れ、繁盛していました。
「自分にできることを探しなさい」と言われ、家中を見渡しましたが、見つかったのは皿洗いくらい。
当時の子どもたちの小遣いの相場は1日20~30円くらいでしたが、皿洗いをしてもらえる小遣いは、1時間たったの5円。
これではやっていけないと、3ヶ月ほどたったある時、父に交渉をしましたが、交渉は決裂。そこで見つけ出した新たな仕事が「うどん」でした。
うどんを打てば、時給50円。
店の外から見える窓ガラスの中でうどんを打ちました。
一所懸命働くし、子どもがうどんを打っているものだからお客は入るし、父からすれば一石二鳥です。
必要とされて役に立つ
自分にできることをして小遣いを稼ぐなかで、小学5年生にして「必要とされて役に立つ」ということを学びました。
仕事には「質」があります。
一緒に働くチームのなかで、「これをしてもらったら助かるなあ」と思ってもらえるものを習得できれば、質の高い仕事になる。
この時の体験が、すべて今に生きていると思います。
「何かを始めるときには、何かをかける」という習慣
学費はすべて、自分で働いて賄いました。中学まではバイト漬けだったので、高校時代は運動に力を入れようと重量挙げを始め、インターハイを目指しました。
高校3年のとき、目標通りインターハイに出場。
しかし結果は届かず、引退となりました。
それまではクラスで流行っていたギターを弾く事をお預けにしていましたが、引退すると音楽活動を開始。
文化祭をきっかけに注目され、すぐに中四国で人気を集めました。
高校卒業後は、メジャーデビューを目指し、家業の仕事もしながらアルバイトをして、昼夜掛け持ちでバンド活動に熱中しました。
23歳の時には長崎歌謡祭に出場。
「この大会で残れなかったら音楽を横に置いて、うどんで日本一になろう」と思っていたのです。
残念ながら結果は全国デビューには至らず、音楽活動を休止。
これが大きな転機となりました。
僕はありがたいことに、昔から、切り替えの覚悟をしやすいように育てられていました。
「了一」という名前は「おさめてはじめる」と書きますが、まさにそうすることを、子どものときからしてきました。
「何かを始めるときには、何かをかける」という習慣は、ときに自分を痛めつけますが、捨てるものがあれば手に入るものがあり、手に入るものがあれば捨てるものがあるということをよく知っていました。
25歳で1億3000万円の借金を背負う
家業に入り、25歳で結婚。
さらに1億3000万円くらいの借金をして、住まいと店舗の入ったビルを建てました。
「借金をしたら一所懸命返そうという気になる」という父の教えを受けてのことです。
当時は、コーポレーションアイデンティティ、CI戦略というのが世の中で叫ばれ始めた時代でした。
地元では山陽相互銀行が「トマト銀行」と名前を改めたことにより、親しみやすさが増し、預金者を急増させました。
そのことが自分の中にものすごく突き刺さって、ふるいちのCI戦略とはなんだろう、地元でふるいちを流行らせるにはどうしたら良いだろう、ということを真剣に考え始めました。
25歳で父に宣戦布告
父に「社長になりたい」と宣戦布告をしたのも25歳のときでした。
今思えば、僕の目的は「社長になる」ことで、現実的な資金や人の調達、そしてそこに伴う責任なんて知りもしませんでした。
根拠のない自信の塊だったのです。
ですが、それから実際に社長になる31歳までの間に様々な経営者との出会いがあって、「会社経営とはどうあるべきか」ということを少しずつ教わって行きました。
父からも学び取ろうと、会社のデスクを隣同士にしてもらい、取引先との交渉へも連れて行ってもらいました。
それまでは「うどん屋の職人」の部分しか見えなかった父が、実際には最高責任者として、どれ程のものを背負っているのかということを目の当たりにしました。
明らかに自分に足りていなかったものが、そこにはありました。
「社長になりたい」人間から「社長」へ
31歳で、いざ社長に交代しようと言われたときは急激に不安になりました。
「社長になる」ことが目的だった人間が、社長業とは何かをわかるようになってしまったからです。
そのとき支えになったのは、先輩経営者の方々の教えでした。
「3年間は全部親父さんに相談しなさい。先代が言っている事をしっかり理解していないと、協力者は出てこない。そして3年経ったら初めて自分のカラーを出しなさい。そのときにカラーを出せるだけの実力がなかったら、今度はあなたについてきた新人がみんな辞めてしまう。」
教えに忠実に築いて、初めて、僕は社長になりました。
飲食店最大のピンチ「食中毒」
会社経営の苦労はたくさんありますが、10年前に食中毒が発生したときは、最大の危機でした。
卵に付着していたサルモレラ菌により、約100人の被害者が発生。
被害が出た1店舗のみならず全店舗の営業を10日間休止しました。
謝罪はいくらでもできますが、誠意を見せなくては仕方がありません。
お客様の入院先へ、毎日出向きました。
中には宿題もできずに入院する夏休みの子どもたちもいたので、社員みんなで昆虫採集なども手伝いました。
従業員は毎日店頭に立ち、頭を下げてくれました。
この経験は、社員との絆をひとまわりもふたまわりも深めてくれました。
復興のための資金は一億円かかりましたが、取引き先の方が売上度外視で協力してくださり、銀行が融資をしてくれ、営業再開から3ヶ月で売上はもとどおりになりました。
何よりも、再開を待ってくださっていたお客様がいたお陰です。
「“エンターテイン麺ト”レストラン」へ
東日本大震災をきっかけに地元の有志でボランティア団体を設立、そこで音楽活動を再開しました。
飲食をやっている僕が音楽をやっていることによって、食と音楽のエンタテインメントが合致する店を作れる「“エンターテイン麺ト”レストラン」を作るのが今の目標なんです。
くらしき山陽大学という音楽の学校があるのですが、彼らの中で卒業後音楽に従事できるのはわずか5%なのだと知り、彼らが音楽で食べていける道を自分なら提示できると考えました。
店先でうどんを作っていたと思った従業員が、突然、演奏をするのです。
音楽と麺類をどのように結び付けられるか、ということが、僕のこれからの大いなる夢です。
取材を終えて・・・
優しい笑顔の古市さん。お話ししていても、温かいお人柄を肌で感じました。
子どもの頃から厳しいお父様の教えを守り、経営者になるにあたっても先輩経営者の教えに忠実に、まじめに取り組んでいらっしゃったので、想定外の困難とは無縁かと思っていましたが…食中毒という試練が襲い掛かりました。
最大のピンチを乗り越えられた秘訣は、再開に向けて懸命に尽力してくれた社員との絆、そして再開を待ち望んでくれたお客様との絆でした。
それまでの日々の積み重ねがあったからこそ、10日間で原因を解明して全店営業再開、そして3か月後には売り上げも元通りという驚異的なスピードでの再建をなしえたのでしょう。
音楽と融合させた新業態の展開も、今から待ち遠しいです!
プロフィール
古市了一(ふるいち・りょういち)
株式会社ふるいち代表取締役
1958年、岡山県倉敷市にあるうどん・まんじゅうの製造業を営む家の長男として生まれる。
青年期のバンド活動を経て、23歳から家業に専念。
31歳で、株式会社ふるいち代表取締役に就任。
CIなどを含む事業政策を実施し、成果をあげる。
現在、ぶっかけふるいちは「くらしきブランド」として認定されているほか、「2016年モンドセレクション金賞」を受賞、「うどん天下一決定戦2016」では見事優勝に輝く。
「古市了一&MARUBU BROTHERS」として、音楽活動も精力的に行っている。
◆ホームページ
http://www.marubu.com/