「追い風に帆を上げる」という言葉があります。いい風のときにうまくいくという意味です。ですが2013年にヨットで太平洋横断を試みた岩本光弘さんの人生は、けっして順風満帆ではない人生を歩んできました。幼いときから徐々に光を失い「いつか全盲になる」という恐怖を抱え、心が折れそうな時期を乗り越えてきた岩本さん。どんな風が吹いたとしても、人生の船に帆を掲げ続ける。そんな挑戦を重ねてきた全盲のヨットマンであり、ライフコーチでもある岩本光弘さんに、見えない目で見た光を教えていただきました。
絶望は必ず希望へと変えられる
サンフランシスコへ留学。アメリカで実感した責任力のあり方
──インクルーシブ教育が発達したアメリカに留学されましたが、アメリカの社会はどうでしたか?
アメリカの社会は障害者に優しいと言われていますが、肢体不自由の車椅子を使う方々に優しい社会だと思いました。点字ブロックや音響式信号機も少ない、視覚障害者には逆に不便な街でした。サンフランシスコは電車やバスもありましたが、アメリカは基本的に車社会です。買い物に出かけて迷ったとき、道に聞ける人がいないんです。一度、困って車の窓をコンコンと叩くとそれがパトカーで。「乗りなさい」って言われたんですが、見えないからパトカーとはわからないんですよ。アメリカだし、誘拐されたらどうしようと思いました。すると警官がピストルを触らせてくれて「俺は警察だ!」と教えてくれました。
──確かに見えないと怖いし、わからないですよね。
日本でも乗ったことがないのに、アメリカ生活でパトカーに乗ることになりました。アメリカでの生活は文化の違いによる経験もありました。大学の寮で暮らしていたんですが、日系のスーパーでものを買ってきて焼いたんです。同室の子から「くさい!」と言われましたね。くさやなどでなく、普通の干物なんですが。アメリカで過ごした時間は刺激的でいろいろと面白かったです。
──アメリカで学ばれてどんなことを感じましたか?
障害者であってもチャンスが与えられる社会でした。同時に責任も問われる。自由やチャンスは責任とセットなんです。だからよく書類にサインを書きました。当時日本ではスキーリフトに乗れなかったけれど、アメリカではサインを書いて、責任を自分で負って乗ることができました。日本は甘えられる環境でしたが、そういう挑戦はできない。アメリカでは責任を負えば挑戦ができる。もちろんその怖さは感じましたが、挑戦できる嬉しさの方が大きかったです。
稲毛海岸で出会ったヨット。全盲のヨットマンへの挑戦。
──アメリカから帰ってきて教員として仕事を始められたのは、かつての自分のような生徒さんたちを育てたいという思いがあったのでしょうか。
そうですね。やっぱり自立を助けたいというのはありました。見えなくても経済的にも自立できるように鍼灸を教え始めました。鍼灸の仕事において、盲の人は感覚が鋭いといった強みもあります。
見えないからこそ、得られるものがあるというのは僕自信が体験してきたことです。
──ヨットに乗られたり、ご自身も新しい挑戦をされていますよね。ヨットを始められたきっかけはなんでしょうか。
妻と週末に稲毛海岸のマリーナのヨットレンタルと出会ったんです。「乗りますか」と声をかけられて、それが初めてのヨットとの体験でした。
モーターボートと違って、ヨットは音が静かなんです。波を切る音や潮の香り。鳥や動物がやってくる。見えなくても五感で感じて自然との一体感が味わえるのが魅力でした。
キャスターの辛坊治郎さんと太平洋横断と挫折。うつ病を発症
──宮古島のトライアスロンも完走されていますよね。
これを頑張れたら、もっとたくさんの人に勇気を与えられるんじゃないかという一心でした。エイドステーションで水を貰おうとしたら、そこに縁石があってバランスを崩して、ぎっくり腰になってしまいました。そこまでは制限時間30分前にはつけるんじゃないかと考えていたんですが、残り40秒での完走になりました。最後はもう伴走のガイドの方に体を預けているくらいです。いつもならそのくらいの段差は大丈夫なんですが、それまでに水泳と自転車をこなした後だったので、足がふらふらだったんです。太平洋を横断するより、強いメンタルが必要でした。
──太平洋もかなり大変な挑戦だったと思いますが、それより強いのですか?
太平洋をヨットで横断するのは、出港してしまえばもうやるしかない。トライアスロンはいつでもリタイアできるから強いメンタルを維持し続ける必要があります。
──2013年には、キャスターの辛坊さんと太平洋横断し、クジラに衝突されましたと伺っています。これは不可抗力ですが、世論が厳しかったそうですね。うつ病を患われたと伺いましたが…
「そら見たことか」「見えないくせにどうして夢を持ったんだ」などのように、厳しい意見はたくさんいただきました。うつ状態の時にはそういう意見が「その通りだな」と感じていました。「家から一歩も出るな」という意見もありました。ああ、これで僕の人生は変わってしまったんだと思いました。僕はやりたいと思ってあの時家を出たけれど、だから迷惑をこんなにかけてしまったんだと思いました。「これだけの税金を使いやがって」と実際にかかったお金を計算して送ってきた人もいます。
「もう一度やろう」そう声かけてくれた人の存在に救われた
──そんな状況から、もう一度チャレンジしようと思えたのはなぜでしょうか。
それはもう、相方ですよね。ダグとの出会いがなければ叶わなかったチャレンジだと思います。日本では失敗したことを批判されましたが、彼はアメリカン・スピリットで「見えないのになんでやろうとしたの! しかも命をかけて死にかけるなんて! 凄い」と挑戦を評価してくれたんです。
そして彼は「今度は僕の命もかけてやろう」と相方に名乗り出てくれました。
ヨットをしたことがないのに!
──ヨット未経験で命をかけたいって名乗り上げられたんですか!
さすがに僕も最初は「え!?」って思いましたよ。彼は事業家として成功しているんですよ。日本がバブルでアメリカのビルを買っていた頃、日本に興味があって来日し、英会話の講師になりました。その後アメリカの景気が上がるとその波に上手く乗ったんです。共通の友人を通じて僕のことを知って「会いたい」と連絡をくれました。実際に会ってみると「自分にはセーリングスキルはないけれど視力がある。きみは視力はないけれどセーリングスキルがある。できないことを補い合えば、絶対にできる」と彼は語りました。それで心が動きました。
──フェアな支え合いの相方なんですね。
日本ってお涙頂戴の「障害者を健常者が助けました」という感動物語になりがちです。でも僕はそれだけではないと思っていました。彼の言葉を聞いて、そういう固定概念を覆すにはいい機会だと思ったんです。2年後に計画を実行するので、彼のセーリングスキルも伸びるとは思っていましたし、ダグの言葉は決め手でした。多くの人は「無謀だ」と離れていくとしても、彼の心が僕のメンタルに届いたんです。
救われた子どもたちに伝えていきたい
──鍼灸、ヨット、タフメンタルトレーナーのように様々なキャリアをお持ちですが、今、力を入れていらっしゃることはなんでしょうか。
講演家とタフメンタルトレーナーです。会社員の研修などでお話します。社長さんのようなリーダーシップが立場の人への講演、相談や経験からのアドバイスもあります。そういう立場は孤独な人が多い。自分が経験した、見えないからこそ見えるものがあるといった話や、ヨットでの太平洋横断した辛さなどを伝えています。この世の中、起こってもないことで不安や恐怖を感じてしまう人が多い。そういう人たちに叔父の「感謝を持ち、今に生きろ」というメッセージを伝えていきたいと思いました。不安を持つ人に元気を与えるために2015年8月15日の終戦記念日に、サンディエゴで初めて集会を開きました。
──海外で活動されるのは大変ですよね。
「ありがとうフルネス」という言葉を作り、ありがとうでマインドをいっぱいにしようと活動を続けています。ありがとうには「有難し。ここに存在しているのは奇跡なんだ」という語源があるので、ひとりひとりがその思いで生きていけば自殺なんてしないと伝えたいんです。奇跡で今があるんだから。僕は十代で死にたいと思ったからこそ、若い世代に伝えることで自殺を無くして笑顔を取り戻したいんです。そして目の前にいる人もまた奇跡だと思えば、殺そうとは思わない。そうなれば世界は平和になると信じています。昨年「グローバルありがとうプロジェクト 」というのを作って活動を続け、昨年の7月にカリフォルニアから NPOの認定も受けました。
──将来の夢について伺えますか。
「グローバルありがとうプロジェクト 」をもっと積極的にやって、世界に支部を作りたい。それが今の僕の夢ですね。お互いに助け合い、ポジティブに生きる平和な世界にしたいんです。もうひとつが自殺予防です。若い子どもたちに対して、僕の経験を伝えていきたい。モチベーションのあるスピーカーとして活動していきたいと思っています。
(了)
インタビュー: ライター:久世薫
岩本光弘(いわたみつひろ) プロフィール:
ブラインドセーラー・メンタルトレーナー、モチベーションスピーカー。熊本県盲学校専攻科理療科卒業後、渡米。San Francisco State Universityに留学した後に帰国し、筑波大学付属盲学校の教員となる。16歳で全盲となった経験から生きる価値を伝える活動をさまざまな形で精力的に行っている。自身も2013年にニュースキャスター辛坊治郎氏と太平洋ヨット横断に挑戦。その後トライアスロンやマラソンにも挑戦。
公式サイト:https://hiroiwamoto.com/