世界の大使館での警備経験を活かして、女性の生きづらさと闘うスゴい人!▶坂本新様 DAY1

新宿歌舞伎町。夜になるとここに集まる人がいる。人間の必要と欲望が交錯するこの場所で夜回りに奔走するのが今日ご紹介する坂本氏。戦争で死ぬことも、飢餓にあえぐこともない現代日本の首都で、我々にとって「見えていない」「見たくない」現実に光をあてるその覚悟と人柄はどのように形成されたのか。NPO法人レスキュー・ハブ代表 坂本氏に伺いました。

我が為すべきを為すのみ

▶動画を見る

DAY2を読む

 

編集部(以後 編):新宿歌舞伎町を拠点に活動をされているそうですね。

坂本氏(以後 坂):はい、基本的には。昼間は普通に自分の仕事をしていますので。

 編:今日はその行動の源泉となった坂本さんのこれまでを伺えたらと思います。

坂:特別なことは無い、普通の人生ですが(笑)。よろしくお願いいたします。

 

自然豊かな温泉街で過ごした幼年期

編:東京のご出身ですか?

坂:生まれは栃木県です。合併前は黒磯市、今は那須塩原市となっている街で生まれ育ちました。父と母と5歳下の弟の4人家族です。父親は医療事務をしていて真面目な人で、母親はピアノの教師でした。父親の勤める診療所は温泉街のさらに山奥にあって、家族は同じ建物内に居住していました。土産物屋で働く人や湯治客などが診療に訪れるのでいろんな方が身近にいる環境でしたね。家の周りで冬はスキーができましたし、狐やタヌキ、むささびなどの野生動物などが日常にいる田舎で育ちました。今では考えられないですが、野犬狩りの猟友会の男性達がライフルを持って歩いている姿を何度も見かけました。

 

編:今の都会での活動とは全く違う、自然豊かな環境で過ごされていたのですね。

坂:そうですね。でも野生児ということでも無くて、基本的に手はかからない子供だったと思います。母にピアノを習いましたので、男の子では珍しく学校の合唱などでピアノ伴奏を担当したりもしました。

両親がクリスチャンでしたので、「自分の使命を正しく全うすること」という考えは当時から自然に身についていました。理不尽なことが嫌いで、いわゆるガキ大将的な子どもが列に割り込んだのが許せなくて。4人相手に「ちゃんと順番に並べよ」なんてけんかになったことがありました。僕が先に手を出して相手を泣かせてしまったので、結果的に僕が叱られる。となったのですが(笑)。

 

編:すでに正義感があふれていますね(笑)

坂:いえいえ。地元の中学校は生徒数も少なくて、選べる部活は野球部か卓球部のみ。当時は昭和のスポ根真っただ中の時代でしたから、タイヤを引っ張ってグラウンドを走ったり、遅刻なんてしたらちょっと怖い先生の持っている木製バットでお尻叩かれたり、ビンタされたりするような。典型的な昭和の田舎育ちです(笑)。

高校も栃木県立高校の普通科に進みました。同じ中学校から半数くらいが進学するので顔見知りが多かったのですが、当時流行っていたビーバップ・ハイスクールという漫画に影響されて、高校にいったら他校の生徒と入り乱れて喧嘩になるんだと勘違いしていたんですよね。(笑)。身体を鍛えなければ!と一人で思い込んで中学校時代から空手の本を買って自宅で練習していました。本当に笑い話なんですけど。

 

編:でも本人にとっては自分の身を守るための一大事ですよね。

坂:ええ。だから高校では、筋トレを一番やっていそうというだけの理由でスキー部に入部しました。夏はひたすら走り込みと筋トレ。その頃に流行っていた「ロッキー4」 のシルベスター・スタローンを目指してひたすら身体を鍛えました。冬が来て、さあスキー本番!となった時に改めてスキー道具にお金はかかるし、そもそもスキー競技に興味ないなと気が付いて。スキーはやらずに、街の空手道場に通いました。学校のちょっと不良の同級生からもスキー部員としてではなく「身体鍛えているし、空手やっているから多分強い」と思われていました。その噂は否定せずそのままにしておきましたから、あまり絡まれることもなく、割とうまく誰とでも仲良く過ごすことができました。

 

鍛えた身体で「人を守る仕事」に目覚める

編:ビーバップ・ハイスクールの予想は正しく自分を守ってくれましたね。

坂:実際には僕は全然強くなかったんですけどね(笑)大学は高校からの推薦で、仙台の東北学院大学の教養学部教養学科人間科学専攻に進みました。成績は良くなかったのに高校から推薦がもらえた理由は、遅刻はゼロ、欠席も早退もほぼないのに加えて、先生が困っているのを放っとけない性格が幸いしたと思います。例えば学級委員を決める時にみんなが嫌がって誰もやりたがる人がいないときってあるじゃないですか。ついつい「じゃ僕やりますよ」と引き受けてしまうタイプでしたから、よく先生にも「助かったよー」と言われていました。

編:それは絶対推薦もらえるパターンですね!

坂:大学ではアルバイトもしながら応援団に所属していました。大学の応援団というのは結構活動が忙しいものでして、それに加えてアルバイトでお金を稼ぐ必要もありました。交通誘導や建築関係、ビルの解体やコンサート会場の警備などのガテン系のアルバイト、人を守る仕事を多くやっていました。日雇いでその日にお金がもらえるのは魅力的でしたね。

 

編:「人を守る仕事」は当時からされていたんですね。

坂:自分には向いているなと思いました。モチベーションを失わないでやり続けられるという意味で。だから卒業後は警察官になろうと考えて試験を受けました。ところが当時は不況真っただ中でまさに就職氷河期。公務員はとても人気がありました。あまり勉強をしていなかった私は宮城県警と警視庁を受けたのですがどちらも不合格でした。その時に自分のやりたいことを仕事にできると思ったのが警備会社のALSOKだったんです。

編:なるほど!きちんと自己分析をして、就職できているのはすごいですね。

坂:仙台で採用されたのですが、配属は東京の新宿で働くことになりました。

警備員時代

 

仙台から都会の東京へ就職

編:初めての東京行きに不安はなかったですか?

坂:仙台の友人と離れるのは寂しくもありましたが、東京の吉祥寺の寮で社会人生活をスタートするのは心機一転、期待もありました。満員電車で通勤して会社の更衣室で制服に着替えます。入社してすぐに配属されたのは常駐警備、いわゆるビルの防災センターにいる守衛さんです。

 

編:危ない目にあったりはしないんですか?

坂:僕自身がというのは無かったですね。近隣の建物2年目からは営業に配属されました。警備システムの販売を担当していて、飛び込みの営業なども経験しました。当時はバブル崩壊によって、失業率が上がって治安が悪くなる。という話が合ったりもしたのでセキュリティ意識が日本の中で高まっていたので、割と警備システムの売り上げも伸びていました。

 

4年半の営業を経て、東京から中米へ

編:若手として海外の日本大使館の警備へ抜擢されましたね。

坂:営業の仕事も4年を過ぎるころに在外の日本大使館警備という海外転勤の打診がありました。

96年にペルーの日本大使館公邸占拠事件というのがありまして、これをきっかけに中南米などの潜在的なセキュリティリスクが高いエリアの日本大使館の警備を国として強化するとなりました。そこで28歳の時に中米のホンジュラスに単身わたりました。

 

編:ホンジュラスというと日本人にはあまり馴染の無い国です。

坂;ベルリッツで学んだ多少のスペイン語のみが頼りでしたし、人生初の海外渡航でしたから、アメリカでの2回もあるトランジットが無事にできるか、現地に本当に到着するのか。とい不安でいっぱいでした。、そして飛行機が日本を飛びたって、遠ざかる成田の町の灯りを見た時には「ああ。もしかしたら生きて帰ってこられないかもしれないな」という思いも沸いて、親とも日本とも今生の別れのような覚悟でした。

ホンジュラス事務所にて

編:実際はどうでしたか?

坂:。生活面では食べものには困らなかったのですが、慣れない土地で言葉の壁がありながら、住居をみつけるのは大変でしたね。仕事面では、そもそもが初めての会社外組織での業務で、それも海外ですから。どうにかこうにかスタート地点にこぎつけたという感じでした。

僕の担当業務というのは主に警備内容の企画立案だったので、現地のセキュリティスタッフを指導したり、日本の警備システムの使い方を指導したりしました。それでもホンジュラスという国は日本と比べるとやはり治安が悪いですから、警備業務の殉職率が高く、給料も安いです。警備先で窃盗する人もいたし、警察官でさえも賄賂を受け取るので、日本大使館の警備担当としてあるべき誠実さや勤勉さという面の教育指導が大変でした。

ホンジュラススタッフと

編:危ない経験もされましたか?
坂:市街地でマフィア同志の抗争が起きて、軍と警察が鎮圧に入ったり、日系企業の入るビルに爆破予告があったりと、日本とは違ういろんな出来事がありました。特に貧困からくる女性の劣悪な生活状況を目の当たりにしたときには、衝撃を受けました。その時に自分が何かを解決できる知識も立場もなかったのですが、ホンジュラスでのその光景というのは今も忘れられない、自分の行動の原点でもあります。(2日目へ)

坂本新(さかもと あらた)
NPO法人 レスキュー・ハブ 代表

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう