累計発行部数1,000万部以上!「犬マンガ」第一人者のスゴい人!▶DAY1 高橋よしひろ様

熊犬やマタギ犬という言葉を知らない人も、熊と戦う銀という犬の名はどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。銀は巨大な熊と戦い犬たちの熱いドラマを描いた名作『銀牙 -流れ星 銀-』の主人公。動物漫画の金字塔といえるこの作品はシリーズ累計で現在までに1,000万部を超える国民的大ヒットを記録し、アニメやミュージカルにもなりました。そんな熱い犬たちのドラマを長年に渡って描き続けた作者が高橋よしひろ先生。シリーズも主人公の代替わりを重ねながら現在も『銀牙伝説ノア』を連載されています。2022年にはデビュー50年を迎える高橋先生に、今回はご自身の半生と作品について語っていただきました。

天は人の上に人を作らず  人の下に人を作らず

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自然とともに生きる秋田の山村で過ごした子ども時代

──早速ですが、どのような幼少期を過ごされたのか伺えますか?

奥羽山脈の一番山奥でね。分校みたいなところでね。20人くらいのクラスだったよ。

うちは農家と酪農をやっていたんだけど、小学校6年くらいのときには牛が16頭いた。それを俺と兄貴が面倒見てたんだ。合間にニワトリやアヒルも見たりね。だいたい鶏は20羽くらいいて、犬もいた。親父も目が悪いし、子どもに世話をさせるんだよね。田んぼは8反くらいだけあった。食べるのがやっとだよ。春先になると熊狩りがあって、倒した熊を張り付けにして回るんだ。その熊がえらい大きく見えるんだ。天を見るように見上げてさ。迫力があったなあ。

 

──秋田ならヒグマではなくツキノワグマですよね。それでもそんなに大きく感じるんですか?

そう、ツキノワグマ。子どもだからちっちゃいしさ。川に大きな鹿が流れてきたこともあったね。ニホンカモシカの雄だったのかな。春になると川が雪解けで増水するじゃない。茶色い濁流が流れてきて、いろんな生き物が流されるんだよ。

 

──凄い自然の雄大さを感じますね。イノシシなんかはいなかったんですか。

昔は福島より北にはイノシシはいないなんて言われていたんだけど、最近は出てくるようになったみたいだね。あったかくなってきたからかな。猿も増えてね。あれは青森のほうの群れから来たのかもしれない。

生まれ育った村を出て多くの出会いを経て漫画家への道が開かれる

──自然豊かな故郷を出るきっかけを伺えますか。

兄貴は定時制高校に行ったんだけれど、俺はこの村にいたらダメだと思ってた。中学卒業のときに親父に出たいと言ってみたら「いいよ」と言ってくれたので、トヨタが出資した子会社の自動車工場、協豊製作所に就職してね。最初俺はトヨタに入った!って思って喜んだんだけど違った(笑)。15歳で秋田から就職した愛知県豊田市に行くときに、上野でびっくりしたんだよ。2階建て以上の建物なんて見たことなかったから。あの頃はテレビでもそういうのはやらなかったからね。そして豊田市についてまた驚いた。暑いのなんのって!学生服で言ったもんだからよけいに暑く感じるよね。とにかく豊田市ってむちゃくちゃ暑いんだよ。秋田なんて汗出ないから。

 

──15歳で秋田から豊田市へと全く環境が変わったわけですね。

俺は「すぐやめて東京に行って漫画家になる」って言ってた。就職ってのは口実だった。親父が大嫌いでね。とにかく家を出たかったんだ。いつか殺してやるくらいに思っていて、兄貴に相談したこともあったよ。でも兄は笑って全く本気にしてなかったね。真面目な人間だからさ。

 

──就職も希望とは違ったんですね。社会に初めて出たときどうでした?

俺が配属されたのは型を作るところだったんだけど、面白くないのよ。車を作ってるって感じもないし。興味がないからいろいろ教えてもらえるんだけど、頭に入んないだよね。それでも辞めるときはやめないでくれってさかんに止められたよ。今年入ったうちで一番偉いし、真面目だよって。成績表まで出してくれたんだけど、でもやる気がないんだよ。1年くらいいたかな。

いろんな仕事につきながら漫画家への道を模索

──会社をやめられてから次はすぐ決まっていたんでしょうか。漫画家を目指されたんですよね?

名古屋の阪急電鉄の沿線にあったトップ理容っていう理髪店に逃げたんだよ。やめる時には親父が「やめるなやめるな」って言っててさ。手紙が上手いもんで、社長にまでやめさせないでくれって、手紙を書いてたんだ。俺は「やめたら漫画家の弟子になる」って言ってたから。弟子だと給料がないと思ってたから。でも実際は理髪店の後に漫画家のアシスタントになったら月給は3万円。当時だと工場や理髪店より給料がよかった(笑)

 

──理髪店さんもすぐやめられたんですか?

理髪店には3ヶ月くらいいたかな。理髪師になりたいわけじゃなかったからね。隣にとんちゃん屋があったんだけど、そこの親父には「いやあ高橋くん。漫画家なんてそんなに簡単になれるもんじゃないよ」って言われてたよ(笑)。でもね。そう言われても「そうかなあ。でも夢を叶えたいな」って思ってとりあえず頑張ってきたんだよ。理髪店をやめる時には、働いていた若い同僚たちがペンや絵の具を買ってくれて応援してくれてね。なんにもお返しできてないんだけど。

 

多くの人に後押しされて上京!本宮ひろ志先生の仕事場に突然訪問

──そうして上京されたんですね。本宮ひろ志先生のアシスタントになったそうですが、どういった経緯でしょうか。

電車が怖くてバスで上京したんだけど、バスだと渋谷で降ろされるんですよね。その頃、江戸川区で修理工をやっていた兄貴に迎えに来てもらったよ。しばらく行くところがないから、兄貴のところの2階にしばらく置いてもらうことになって。働けって言われるし、仕事を探そうと思って本宮先生のところに訪ねていってね。当時は住所もファンレターの宛先として公開されてたんだよ。それで飛び込みで行って。本宮ひろ志先生のお兄さんのみっちゃんが対応してくれた。「どうしても漫画家になりたいんです」って熱意を伝えて。そうしたら「俺が漫画家にしてやる」って先生に会わせてくれた。

 

──いきなり訪ねて先生と対面したんですね。

仕事場に通されると、ワンルームのアパートで台所がある部屋でみんなが仕事して、先生が奥のほうで寝てんのよ。みっちゃんが俺のことを紹介しようと起こそうとするんだけど、全然起きないの。でもきれいな女の人が訪ねてきたら、先生さっと起きて出かけていっちゃった(笑)。俺は待たせてもらうことになって。しばらくして先生が帰って来ると、みっちゃんが「この子がアシスタントやりたいって言ってるよ」って言ってくれたんだ。そして「じゃあ半年後に募集するから」って教えてもらえたから、半年間、なんとか絵が上手くなってまた来ようと。

 

──アシスタントの審査ってどんなものだったんですか。

「どんな絵を描いてくればいい?」って聞いたら「好きなものでいい」って言われて。近くにあった伊能忠敬の生家を描いたりね。電線って写真だと黒く潰れちゃうけど、電線をホワイトを水で薄めてベタの上にかけて描いたら、その線がすごくきれいにできて。それで「コイツはセンスがあるよ」ってみっちゃんが勧めてくれたんだ。

 

 

(2DAYに続く)

インタビュー・ライター:久世薫

 

高橋よしひろ(たかはしよしひろ)氏 プロフィール:

漫画家。惜しくも賞を逃した『下町弁慶』が編集部の目に止まり『週刊少年ジャンプ』に掲載されデビュー。翌年に『おれのアルプス』で第5回手塚賞佳作を受賞し、リベンジを果たす。以降、精力的に作品を描き続け、漫画家としてのキャリアを重ねていき、1983年に『銀牙 -流れ星 銀-』の連載をスタート。漫画家として不動の地位を築く。この作品は第32回小学館漫画賞を受賞し、日本のみならず海外でも高い評価を得ている。シリーズを重ね、現在では日本文芸社『週刊漫画ゴラク』にて最新シリーズ『銀牙伝説ノア』を連載中。

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