本日から2日間にわたってご紹介するのは今話題のデジタルサイネージ広告で業界をリードする3D Phantom(ファントム)事業を担う田中幸一郎様。若干31歳でありながらその半生は、波乱万丈。どんなきっかけや出会いが彼をそう至らしめたのか、お伝えしていきます。
こだわるべきは己の人生!
見どころ
―実家の割烹で想像力を膨らませた幼少期
―放送部の地位向上をミラクル実現
―恩師の病死に衝撃を受けた高校時代
2日目を読む
好奇心旺盛な子供時代
平成元年の横浜生まれ、横浜育ちです。一回り以上歳が離れた姉が二人いますから、小さなころはほとんど一人っ子同然で育ちました。実家は両親が営むふぐ料亭です。割烹 「田乃中」 と言いまして、子どもの頃から夕食に河豚が出ることが良くあったのですが、子供心には「ハンバーグの方がいいな」なんて思ってましたね。皆さんには羨ましいとよく言っていただくのですが(笑)大人になった今では自分でも接待のお店として利用させてもらっているので本当にありがたいなと思っています。僕の年齢では普通だったらなかなかできないことですから。
子どもの頃はとにかく好奇心が旺盛な子どもでした。親に言われるのではなく、習い事を自分から何でもやってみたいと頼みました。行かされるではなく、やってみたい!だったんです。水泳や書道、クラシックギターに公文。ただし一度始めたら簡単にはやめさせてもらえなかったです。時間をかけて、厳しい状況でもやり遂げるということを学びました。基本的には学校が終わる頃には両親はお店にいますから、家には帰らず、電車に乗って両親がいるお店に帰るんです。当然学校の友達は近所にはいませんでしたから、一人で遊ぶことが多い生活でした。習い事のみならず、僕が好きな事はなんでもやらせてもらえる環境ではありましたね。お店の大きいシンクや生け簀に業務用の洗剤を使って入れてね、泡をぶくぶく出して天井まで到達して両親を驚かしたりもしました。客間に沢山ある座布団で秘密基地を作ったり、子供らしい遊びもしていましたね。ゲーム機はあまり買ってもらえない家でしたので、自分で想像し、試行錯誤をして遊んでいました。お店の営業時間になると、店の前の昭和医大のお医者さんがよくいらしていたのですが、その宴会の中に入り込んでちゃっかりお小遣いなんてもらっていました。あまり物怖じしない性格はこういうところでも培ったかもしれません。今でも目上の方に可愛がられるのはこの経験かも(笑)
アナログな遊びで身に着けたクリエイティビティ
対外イメージ的にはITとかリテラシーに知見のある人間に思われがちなのですが、やはり実行力や形を創るクリエイティブなアイデアはこういうアナログな遊びの中で育まれるような気がします。妄想の中で遊びますからね。ゲームの中でだともう与えられたイメージやビジョンの中で遊ぶじゃないですか。でもやはり真っ白の「じゆう帳」にまさに自由な発想で、どう埋めていくのかみたいな才能を育てることが重要だと思います。父親が板前としてふぐ一尾をさばいて綺麗なふぐ刺しにしている芸術的な動作を子供の頃から見て、アート的な感覚もそこから学んだのだと思います。芸術的な感覚を養うという意味においては、子どもの頃から毎週ビデオレンタル屋にいっていくつか借りてきて家族で見るという習慣は大きかったかもしれません。今やネットでいくらでも見られる時代ですけれど、当時うちは家族でレンタルした映画を見ていました。500円玉をもらって近くのレンタル屋に行って借りてくるというルーティンでした。
最速でイケメンの放送部を設立
中学校はおとなしいほうで、バスケットボール部に所属はしましたが、朝連は嫌だわ、無駄な走り込みはしたくないわ、ダサいユニフォームが2万円というのも納得いかない。という感じで、入って3か月で「僕、勉強に集中するので退部します」と言って辞めました(笑)。早すぎですよね。しかし、部活をやらないと入試の時に良い影響がないなと思ってなにかやろうと思ったんです。放送部が楽しそうだったので、可愛い女の先輩が2人いて、夏も冷房の効いた放送室で弁当食べられたり、いいじゃん!って思って。僕その当時松浦亜弥さんが好きだったので、松浦亜弥さんの曲ばっかりかけてたら生徒から「他のもかけろ」ってクレーム来たこともありましたねー。懐かしい(笑)
その時の放送部のイメージはでもネクラなイメージだったんですよ。だからなんかみんなの突き上げが厳しい(笑)で、これは放送部のイメージ改革をして地位向上を図らねばこのまま言われたい放題になるなと思ったんです。で目を付けたのがサッカー部。Jリーグのユースチームに所属しているがゆえに、サッカーが無茶苦茶うまいのにサッカー部に入れない人が数名いたんですよ。サッカーユースチームってもうキラキラ輝かしい経歴じゃないですすか。勧誘しましてね(笑)。
内申評価にもいいし、冷房効いてるし、おしゃべりし放題だし、めっちゃいいよ。どう?ってね。全員放送部に入ってもらいました。またみんなイケメンだからね、一挙に放送部は入りたいキラキラ部活になりましたから、当初の目論見通り、放送部の地位は劇的に上がりました(笑)。当然、その辺の運動部より絶対的に足が速い放送部でして(笑)。体育祭の時の部活対抗リレーは面白かったですね。柔道部は途中で背負い投げなんかの技かけたりして走るじゃないですか。その部活の特徴を披露するから。放送部はマイク一本握って走るだけだから(笑)陸上部より早い放送部って何!?みたいなことが起きました(笑)
恩師との出会い
高校進学は、高田馬場にあるスポーツ強豪校の保善高校です。毎朝6時に起きて横浜から通いました。高校では水泳部に所属していたんですが、子供の頃からやっていて自身があった水泳なのに、初めて辰巳国際水泳場で大会に出た時におぼれかけたんですよ。力み過ぎたんですよね。最下位をとってプライドはズタズタになりました。そんな時に出会ったのがダンスで、文化祭でダンサーを募集するときに、「これだ」とひらめきました。もともと映画監督になりたいという夢があった日本大学の芸術学部に行きたいと考えていたので面白そうと思いました。ダンス部が創設されて、その顧問になる先生が有名なダンスグループでBE BOP CREWのSETOさんのお弟子さんだった方でしてね。僕は目立ちたがりの引っ込み思案だったんですが、ダンサーとしてスポットライトを浴びた瞬間に、「これだ!」と直感したんです。人前に出ることが好きなんだとはっきりわかりました。そこから芸能事務所に所属して俳優としてオーデイションを受けていきました15・6歳くらいでしたがNHKに出たりもしていました。保善高校は芸能活動が禁止だったのですが、入学時より目をかけてくださっていた担任の大津先生が僕のやりたいこと、それから才能への挑戦を後押ししてくれました。大津先生がいなければ今の僕はいなかったといっても過言ではありません。高校2年の学祭では、ダンス部は注目されていたので、他校からもわざわざ見学に来てくれる人が出るほどでした。
大津先生はその当時学校を休みがちになっていたのですが、僕がダンスで頑張っているのを喜んでいらしたので、学祭にはきっといらっしゃると思って頑張っていました。そうしたら学祭の閉幕時にアナウンスがあって、大津先生が大腸がんで亡くなられたと聞いたんです。ショックで頭真っ白になりましたね。人ってこんなにあっけなく死ぬんだと思いました。僕が全校生徒を代表して弔事を読み上げたのですが、もう泣き崩れましたね。大津先生には人生の価値観みたいなものを命をかけて教えていただいたと思っています。
インタビュー:NORIKO 映像:株式会社グランツ
( 2日目に続く )
Phantom サイネージ株式会社
公式サイト:https://phantom-3d.net/
公式Twitter:https://twitter.com/_3dphantom
製品紹介:弊社は空中に3D映像を出す3D Phantom(R)(スリーディー ファントム)をメインとし、ハード開発・映像制作・イベント企画を行う会社になります。3D Phantom(R)とは空間に3D映像を作りだす機器で、専用メガネをつける必要はなく、肉眼で3D映像を見ることができ、その圧倒的なインパクトと世界感で、店舗・イベント・展示会・舞台の演出やアイキャッチなどにご利用いただいています。
プロフィール 田中 幸一郎(たなか こういちろう)氏
横浜生まれ、横浜育ち
2006年 ダンス甲子園出場
2007年 JAMにてLock Danceで全国7位
2009年 慶應義塾大学環境情報学部へ進学→事業専念のために自主退学
同年 株式会社GATCHにて起業→武田塾にてWebコースを開始(18歳)
2011年 中華人民共和国にて邦人向け医療事業を開始(現:さくらクリニック)(20歳)
2013年 障がい者の就労移行支援事業所を開始(23歳)
同年 株式会社YUTOLIの取締役に就任しアーティストのPR・デザイン等を行う(24歳)
2014年 次世代のクリエイティブクラスを創出するためのCreators Hiveを開始(25歳)
2014年 IBM Smart Campにて世界1の投票数により、Peoples’ Choice Awardを受賞
2017年 株式会社Life is Style 取締役就任
2020年 Phantomサイネージ株式会社 代表取締役就任 至現在
2020年11月 羽倉賞・ノミネート賞 W受賞 http://soatassoc.org/hagura