本日ご紹介するのは、海外客にも大人気のタカノフルーツパーラーで知られる「新宿高野」4代目髙野吉太郎社長。135年目の老舗起業をけん引するトップリーダーとして、質実剛健、本業集中の気概に満ちた経営方針とその生きざまを伺いました。
新宿と共に
見どころ
ー厳しい明治の教育を受けながら昭和に育つ
ー聴力の無い片耳でブラスバンド部で活躍
ー事業継承は経営者ではなく、後継者へ
明治の教育方針で育てられた幼少期
昭和27年に杉並区の阿佐ヶ谷で生まれ、そちらで育ちました。明治18年創業の新宿高野ですが、大正時代までは店の裏に自宅があったので、父が幼少の頃までは新宿で生活もしていたようです。父は淀橋第五小学校に通っていました。今の場所に新宿高野が店を構えたのが昭和3年。1歳下の弟と5歳下の妹がおります。祖父母は明治の厳格な教育方針の人で、私は直系長男として跡継ぎとしての宿命を背負っていましたから、着るものから食べるものまで全部、私は特別だったんです。今ならNHKのドラマで見るような生活をしていました。家庭の中の全ての順番が祖父母の次は父、その次は私、それから母、最後が弟と妹。父は仕事で毎日遅かったですから、必然的に私だけが祖父母と同じ居間で食事をとり、母と弟妹は食堂で食事を取っていました。寝る場所も家族とは別で、私は常に祖父母と一緒でした。私立の小学校(男子校)に通うようになると、学校帰りに新宿のお店に寄ることが多くなり、これが「家業」なのだと実感したことを今でも覚えています。この頃に「我が事」として認識をしたのでしょうね。
3人兄弟で私だけが特別な「扱い」をされていましたが、それが一変したのが祖父母の死です。祖父が亡くなったのが4歳の時、祖母が亡くなったのが9歳、小学校4年生の時でした。そこを境に生活様式が明治から昭和へと変わりました。私の中ではある意味、明治維新のような出来事です。今まで明治教育の中で「跡継ぎ」として生活していたものが、父母による昭和の教育方針となり、弟妹とすべてが「平等」に扱われるようになりました。皆で一つの食卓を囲み、皆で同じものを食べる。考えてみたらその時代はそれが普通だったのですが、生まれてこの方ずっと明治式の教育の中で特別待遇を受けていた私は、びっくりして、理解するのに時間もかかりました。逆にこれをきっかけに自分の立場を改めて認識するようになりましたね。それまでは祖母と一緒に運転手付きの車でどこにでも連れて行ってもらいましたが、両親は二人とも自分で運転しますから、それもなくなりました。当時は昭和30年代で、時代はアメリカンが主流。両親のことをパパ、ママと呼ぶ風潮がありましたが、1歳しか違わない弟と比べても、私はすぐには馴染めなかったですよね。急にタイムスリップしたというか、カルチャーショックでしたよ。
ブラスバンド部での活躍
私は生まれたときに鉗子分娩の事故で右耳の聴覚を完全に失っていましてね、三半規管も壊れています。この関係で小学校時代から中学校くらいまで耳のトラブルが多くて、外耳炎や中耳炎などは日常茶飯事で、治療のために手術をしたことも何度かあります。その治療のために学校を休むことも多かったんです。ですから体格は良い方でしたが、運動なんかもやってないですね。中学校に入ってからブラスバンド部に入りました。肺活量が当時7000CCくらいあったんですよ。機械のメモリが振り切れてしまうので、保健所に行って特別な機械で計ったら高校の時には7800CCありました。それで体格に見合うスーザフォーンを担当することになりました。スーザフォーンってね、むちゃクチャ大きいんですよ。中学校は那須で合宿をするのですが上野駅にそのスーザフォーンケースを担いで集合するんです。ケースの中に下着や着替えや必要なものを入れてね。電車に乗ったらそのケースの上に4-5人座れますから。それくらい大きな楽器です。
大学は東海大学へ行きました。学部が出来て3年目の政治経済学部で、卒業生がまだいない時でした。世の中は学生闘争が渦巻く狂気の時代でしたが、東海大学は無縁で、とても平和な学生時代でした。東海大学は文武両道を大義とする学風で、スポーツ強豪大学です。今年の日本オリンピック委員会の山下先生や巨人軍の原監督は後輩にあたります。学生ももくもくと学業とスポーツに明け暮れる人が多いです。大学時代、夏休みに初めて本店のフルーツパラーでアルバイトをしたんですよ。でもね、2-3週間で辞めました。周りの皆の気遣いがすごくてね。腫物にさわるような接し方で、これは迷惑だなと(笑)。何か怪我でもしたら大変だってみんな思ってくれるんだよね。だからガソリンスタンドとか、他で働いて遊ぶお金を稼ぎましたね(笑)
市場での経験を積むことの重要性
大学卒業後は東京青果に就職して、当時神田にありました市場で修行しました。会社の人に「お前一生果物はやるんだから、果物はもういいだろ。野菜をやりなさい」と言われました。だからキャベツとかね、松茸なんかもやりました。でも市場の人って男気があるんですよ、大人なの。部長や課長の鞄持ちで地方の農家さんに出張に行った時、例えば青森なんかだとねリンゴ農家さんに連れて行ってくれて、「これが新宿高野の息子だよ」って紹介してくれて。農家さんにしたら当時自分のリンゴが新宿高野で取り扱われていてもその高野の中の人に会う機会なんてそうないじゃない。だから農家の人たちも喜んでくれてね、「先代には本当にお世話になりました」なんて言ってくださって。祖父や親父がやってきたことを教えてもらいました。俺自身も家業が誰の生活にどんな風に支えられているのかを知る貴重な体験だったね。昭和51年、20代前半のことです。
親父はね学徒出陣で大陸に行ったんです。戦後で帰国したら、待ったなしで店の立て直しに取り掛からなくてはならなくてね。だから私にはぜひ市場での経験をという思いは非常に強かったですね。市場は特殊で、朝5時出勤だったり、夜勤もあります。自分の会社に入るとなかなか他の世界を垣間見ることが無いですから、この市場での経験は非常に重要です。市場の同期入社のメンバーとの人間的なつながりができますから、産地や仲買人とずっと時代を共有できるわけです。
経営者ではなく後継者を育てることの重要性
今の時代、長く続く商売の事業継承の難しさというのがよく話題になります。これは私の持論ですが今の経営者は子どもを良い大学に入れたり、海外留学をさせてMBA取得、また経営者としての経験を大手企業でつけさせたりしていますよね。これはすべて、「後継者」を育てているよりは一人の優秀な「経営者」を作っているんだと思います。家業の継承というのは、「学」ではなく、まずは大切な「心」を継承しなければならないのです。明治式の考えでは、古くからの家業を受け継ぐ家庭では、長男よりも次男、三男に学問を付けさせたんです。彼らはいずれ家業ではなく、社会に出ていかねばならないから。知識という武器を持たねばならないからです。しかし長男は家業を継ぐのであるから就職に困ることは無い。それよりもまず家業の何たるかを、その歴史や精神を幼い頃から教え込むのが重要だと考えていたわけです。今色々な方が事業継承の難しさを言われる時に、私自身としては先人のこの考え方というのはある意味正しいのかななんて思ったりもしますよね。
インタビュー・校正:NORIKO 撮影:株式会社グランツ 協力:株式会社アイロリコミュニケーションズ
◆プロフィール 髙野吉太郎(たかの きちたろう)
株式会社新宿高野 4代目 代表
東京都生まれ。東海大学卒。
新宿法人会 会長
新宿間税会 副会長
新宿高野公式サイト:https://takano.jp/