2021 新春特別記事
今回ご紹介するのは国際文化交流舞踊団『曼珠沙華』代表であり設立者であるママローザ(藤中清永)さん。
㈱森英恵(ハナエモリ)VIVID専属デザイナーを経て20代でアパレルメーカーを設立、ヨーロッパでのショーも経験するほど活躍するも、自社ブランドが倒産。自身の生き方を変えたいとマザーテレサに拝謁し、今の活動を始めました。ハンセン氏病療養所やチェルノブイリ原発被災地などに赴くその姿勢に賛同し、国賓として招待される国も多々あります。舞踊という文化が人を慰め、国をつなぎ、時代を和らいでいく。その壮絶で壮大な藤中さんの人生を2021年初春企画として、4日間連続で配信いたします。
奇跡とは人と人との出合い
見どころ
*聖者と言われるマザーテレサ様にお会いしたいとマザーハウスへ
*国内公演はマザーテレサ様に敬意を表し、日本のハンセン病療養所慰問公演から始まる
*チェルノブイリ被災地公演のきっかけとなる北海道へ公演に
マザーテレサへ会いにインドへ!
デビューからすぐ一カ月もしないうちにマザーテレサハウスへボランティアで伺えることになりました。私の知人で家庭画報の編集者の方の紹介だったんです。聖者と言う方がいますから、どういう人か見に行きましょうと誘われて、マザーテレサ様にお会いしに行きました。そこで、ひたすら大量のおむつを洗って3階まで昇って干させて頂いていた時に、あるシスターより「あなたたちは日本から来て、踊りを踊ったりする方達でしょう?ぜひハンセン病の人達に見せてあげて下さい」といわれて、一緒にボランティアに行ったメンバーと、みんなが集まる中庭みたいなところでお嫁サンバを歌って踊ったんです。そうしたらみなさんが喜んで一つの輪が出来上がり全員が笑顔になったんです。終わってみると、そこにいた歩けないおばあさんが私達の踊りを見て立ち上がって踊って喜んでくれて、私の足元に膝と手で歩いて来て、私の泥だらけの足元に口づけをしてくれたんです。するとその方が「本当に楽しかったありがとう。感謝の気持ちを伝えるのに、私にはあなたに差し上げるものが何もありません。だから貴方の足元に口づけをします…」と言ってくれました。その瞬間、私は大きな衝撃を受けました。マザーテレサ様の言葉「貧しい人の中でももっとも貧しい人に仕えなさい…」をなさなければならないと…。日本の社会はここよりも物質的、金銭的には豊かであっても心が貧しく、病んでいる人が多いことを。踊りを通して感動すると、その苦悩を一瞬でも忘れることが出来るのだとおばあさんに教えてもらいました。その日の礼拝でマザーテレサ様が、一番前にいた私のところに来てくださり「貴女はわざわざインドまで来なくても日本ですべきことがあるのではないですか?」とのお言葉を頂きました。マザーテレサ様の私へのメッセージとは、歌と踊りを通して、みんなが喜んでくださり、楽しむその一瞬を創ること。その一瞬に日々の苦悩を忘れて生きる喜びや意味を考え、知ってもらうこと。劇団を立ち上げて良かったんだと確信した瞬間でもありました。そしてまさにこの時に、マザーテレサ様が日本人のシスターたちを叱っている姿をたまたま拝見しました。叱っていらっしゃるのですがそこには愛があり、肝っ玉母さんのようでした。そしてもう一点、マザーテレサ様は、すごい経営者でもあると思ったんです。だって世界中から寄付金を集めてマザーハウスを運営し、経営していらっしゃる。私も経営者だったからそのすごさがわかります。私だって経営者の端くれ。頑張ればきっと何かできるのではないかと思ったんです。
慰問活動のはじまり
帰国してから、ほどなく香川県の友人からハンセン病の療養所で慰問公演をしないかとお話を頂きました。マザーテレサ様のところで強く思い描いた「慰問」という意味での公演がこんなに早く実現したのは不思議なほどです。マザーテレサ様の教えのひとつ、「来たるものを全てを受け止めなさい」ということかもしれません。世の中は人と人とのご縁、出合いしかありません。
1997年当時の高松市の「国立ハンセン病療養所 大島青松園」の施設は、近代化した日本の中でこんなにも外部との接触がない場所があるのかと驚きました。まさにこのような場所で活動することこそが我々の使命だとも思いました。
大島にある教会の神父様は18歳の時、大学に受かった後にハンセン病が発覚し島に行かなければならなくなったと。その時、お母さんからおにぎりとお菓子をもらって着物の中にいれていて、おにぎりは道中食べ、島に着いたらお菓子を食べようと思っていたら、島に入る前に消毒液をかけられてお菓子を食べられなかったことが悔しくて…ずーっとこの年まで思っていたのだけれど、あなたたちを見てこんなにも楽しくなれることがあると言う事が分かったよ、ありがとう。といってくださった言葉が今も思い出されます。
公演が終わり、私達が帰る際には20人ぐらいの方達が私達を見送りに来てくれて「おかげで元気になったよ」「本当に楽しかった!」「また来年もきてね」と本当に喜んでくれました。最後にみんなで「好きになった人」を歌ってお別れをしました。涙で皆の顔が見えなくなりました。その頃からでしょうか、天国を見せてくれる劇団があると言われるようになりました。
チェルノブイリ原発事故で育つ子供たちとの出会い
1998年、北海道でチェルノブイリ放射能被災の子供達を受け入れ保養している野呂美加様(チェルノブイリへのかけはしhttps://www.kakehashi.or.jp/)と知り合うんですね。チェルノブイリ原発事故で放射能被災した地域で育つ子供達を毎年春と夏、北海道で療養させる活動をされていました。
編集部注:東日本大震災により、日本も放射能被災の懸念ありと、活動は中断。
日本は世界で唯一の原子力爆弾の被災国。そして、日本中に原発がある国です。チェルノブイリで起こったことは日本にだって起こりえる。明日は我が身、他人事とは思えませんでした。そのベラルーシのチェルノブイリ地域から来ている子供達に踊りを見せてあげたいと、野呂様にご連絡をしました。ところが野呂様は「このエリアの子供達は政治や教育のハザマに落ちた子達です。本当に何の教育も受けていないから、座ってじっとすることも難しいので踊りを見る事すらできないと思います。」と一旦はお断りされました。しかし、私のモットーは「一人でも見て下さる方があるなら、全身全霊の舞踊をお見せする!」と心に決めて北海道まで慰問に行きました。子供達は本当に喜んでくれ、「国のお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに見せたい!」と言われたんです。「よし、行こう!」と、子供達と指切りの約束をしました。
子どもたちにもらった「ママローザ」の称号
この子達が「ママローザ」の名付け親なんです。私が画家シャガールの出身の国、ベラルーシにちなんで百万本の薔薇のついた着物の打掛を着ていたことから、ママローザと名付けてくれたんです。子供達から頂いたとっても大切な名前です。野呂さんと知り合ってから、私も彼女の活動に感銘し子供達の保養活動を始めました。春と夏、1カ月間10人の子供達を保養に呼んでいました。放射能のない所に1カ月、日本で新鮮な空気、食べ物、水そして里親たちの愛情に触れることで、来日時より身体も心も皆、元気になって帰って行きました。彼らは日本に来るとき本当に貧しい子達ですから紙袋ひとつで来ます。その中には、ほとんど何も入っていません、でも親から渡された里親へのお土産だけが入っているんです。8000キロ以上離れた見ず知らずの日本へ大切な子どもを送る両親の気持ちを思うと…そんな子供達を見たら、お洋服を買って、リュックサックも買ってあげたくなってしまうのです。祖国にはないたくさんのお土産を買って、最後は「さあ、天国に連れてってあげるよ!」っていうと子供達は天国ってどこ?っと目を輝かせます。そこからディズニーランドに連れて行くんです。そして帰る時には写真でアルバムを作って持たせます。祖国に帰ってもよい思い出を時々思い出して、未来に向かって真っすぐに育ってほしいと思います。今ではベラルーシに300人近くのかわいい子供達がいます。
ライター:NOZOMI 校正:NORIKO 映像:グランツ
DAY4へつづく(ついにベラルーシの子供たちに会いに行く!)
- ママローザプロフィール:
本名:藤中清永
12月18日 三重県尾鷲市生まれ
㈱森英恵VIVIDデザイナーを経て自社ブランド「グレープガーデン」を設立、人生の辛酸をのり越え
1995年1月国際文化交流舞踊団「曼珠沙華」を設立、衣装、デザイン及び舞台総合プロデュースを行う
茶華道家、仏画師、書道家といったマルチアーティストと活躍する傍ら、人生経験をいかして企業研修など人材研修にも力を入れている。
ホームページ:https://manjushaka.wixsite.com/manjushaka/about
ママローザインスタグラム:https://www.instagram.com/mama_rosa1218/
曼珠沙華フェイスブック:https://www.facebook.com/profile.php?id=100010549696003